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Thursday, December 31, 2015

7月は4日5日と拾得で七夕コンサート。11日はお山卓治コンサート。彼のファンが全国からあつまった。

7月20日、
富士見高原リゾート花の里へ。7月23日、ミセス・ハーヴィーの訃報が届く。

8月は、4日にレス・マンローさんの訃報が届いた。お盆過ぎから東側の土手の改良作業が始まった。

9月は、2日3日とやなぎさん、辻井さん、そして小山さんのサポートでレコーディング。エンジニアは石崎さん。20日には長男が新しいコンピュータをプレゼントしてくれた。今までのと比べて格段のスピード。28日はスーパームーン。

10月は、13日にレコーディングの若干の修正。石崎さん、やなぎさん、辻井さんが駆けつけてくれた。25日、松本へ田中研二さんのライブを聞きに行く。

11月は、スプリングスティーンのボックスセットの訳で忙しかった。未発表曲の訳に苦労する。28日は中学の同級会。幹事の精力的な呼びかけによって、先生を入れて21人集まった。55年ぶりに会った人も。

12月は11日に町の主催の「シニア男性のための運動教室」に参加。11日、新しいCD『九つの物語』が届く。多くの方々の協力を得てすばらしいアルバムに仕上がった。18日、43回目、最後の三浦久年末ライブ at mandala 2。ここでもやなぎ、辻井、小山三氏の協力を得ていいコンサートになった。


Wednesday, December 30, 2015

年々加速度的に時間の流れが速くなり、2015年も残すところあと一日。

1月は、昨年12月22日に受けた大腸の内視鏡手術のあと一ヶ月は安静にしていたほうがいいとの先生の助言を受けてハードな仕事は避け、雪かきも家人に代わってもらっていたが、コーエンの Live in Dublin の DVD のナレーションやライナーの訳で少々無理をすることも。



1月4日に木名瀬信也先生が亡くなったと、その一週間後、娘さんから連絡をいただく。木名瀬先生にお会いすることがなかったら、ぼく自身の、そして我が家の在り方は大きく変わっていた。折につけて先生の偉大さが偲ばれる。16日早朝、ほんやら堂が火事で消失したというニュースが飛び込んできた。ぼくは、ほんやら堂との深いかかわりはなかったが、それでもぼくの京都時代はほんやら堂抜きでは語れない。

2月は、イスラム国の人質になっていた後藤健二さん殺害のニュースから始まった。個人的には期末試験の採点と、翻訳に追われる。

3月は16日に40th Anniversary で家人と江の島へ。途中長男の新居に立ち寄る。21日は「ひびき」の「第16回お話を聴くひととき」。今回は新しい歌は書けなかったが、30分ほど歌わせてもらう。29日は第7回キング牧師の日チャリティーコンサート。みなさんのご協力のおかげで、今年は7名のカンボジアとラオスの子供を1年間小学校に送ることができた。




4月は22日に第105回の碌山忌が碌山美術館で行われ、その記念コンサートに今年も出演させていただく。翌日23日には東京ドームへポール・マッカートニーを見に行く。ぼくの見た最高のコンサートのひとつ。。




5月は9日に、やぎたこ&丸山俊治コンサート。この日の出会いによってやぎたこのお二人に新しいアルバムのサポートをお願いする。そして今言えることは、彼らにお願いして大正解だったということ。21日は福沢さや&深見順也コンサート。こじんまりとしたいいコンサートだった。31日に次男の家族がニュージーランドからほぼ1ヶ月の滞在予定でやってきた。



6月は大忙し。4日から6日まで次男家族と義母のお見舞いを兼ねて京都旅行。7日は少々早いが母の13回忌の法事。10日から14日までワイトモからマレイ&ジョス・ダルジール夫妻がわが家にホームステイ。20日は古川(豪)君を迎えてのほたる祭りライブ。古川君の生の演奏を初めて聞く人も何人もいて大いに喜ばれる。いいコンサートになった。



続きは明日。
                ■
朝飯を食べ終わったところでドアベルが鳴った。隣町から『九つの物語』のダイジェスト版を聞いてとてもよかったので買いに来てくれたとのこと。ありがたいことである。オヤマ・コヤマチームが作ってくれたこのダイジェスト版は評判がいい。これを聞いて注文してくれた人が他にも何人かいる。

Tuesday, December 29, 2015

今日は朝から家人に促され、仕事部屋の整理整頓。まず、床に散らばっている本、紙、CD、服、ソックスなどを片付ける。片付けている途中に、探していた帽子が本や紙の山の下から出てきた。よかった。そのあと、久しぶりに見る床にルーンバを放つ。

午後あまりに寒いので、温泉に行こうかと思ったが、今日は火曜日、ながたの湯も湯にいくセンターも定休日。それでウオーキングに行くことに。家の坂を下り旧道に出て、国道をわたる。更に、中央線の線路を横切り、横川川の堤防に出て、そこから北に進む。それから村の唯一の信号を渡って、再び村に入り、上の段の農道を南下し家に戻った。出発したときは寒かったのに、家に着いたときは汗ばんでいた。

誰にも会わなかった。空の青が不思議な色合いで、見ていると吸い込まれそうだった。









夜、CDの発送準備。

多くの人たちが継続することを希望していた七夕コンサートは、来年は7月2日(土)3日(日)に行われることになった。詳細はこれから。


Monday, December 28, 2015

6時半、ベッドから起き、階下へ。暖炉に火をつけ、新聞をとりに外へ出る。温度計を見ると-7℃。寒い。昨夜の柚子湯を追い炊きして入ることに。柚子の朝風呂。これはいい。小原庄助さんほどの身上はないので、気楽である。

『九つの物語』のすべての歌に好意的な感想が綴られた手紙が2日前に届いた。特に嬉しかったのは、極めて個人的な家族への歌を真剣に受け止めてくださったこと。

「旅立つおまえに」と「あの果てしない大空へ」はさまざまなしがらみに影響されて子育てをしてしまった責めをいまだに抱きつづけています。子育てに悩んでいた頃にお聞きしたかったです。奥様との二重唱、暖かくてやさしくて、本当に素敵です。

子育ての最中に悩まなかった親はいないだろうし、振り返ってみてああすればよかった、こうすればよかったという思いに苛まれない親もいないだろう。自分の子育ては満点だったと思っている親がいたら、そのほうが危ない。

「菅野有恒」は何度聴いても、痛恨というか哀悼の思いに胸がふさがります。震災の時刻が歌いあげられる部分で胸が痛くなり、クライマックスの場面まで、ニュースで接した映像が走馬灯のように重なります。仏教を私は信仰していませんが、最後の読経に胸を打たれました。被災地のみなさんにも聞いてもらいたい鎮魂歌です。

実際に被災された方々がこの歌をどのように受け止めてくださるか心配ではある。昨夜届いたメールに従って、午後、大船渡に住む方に『九つの物語』を送った。

女声や男声の重唱部分が心地よく、歌の深みが増すように感じられました。全部聴き終わったとき、このCDは応援歌だと思いました。三浦さんの人生で出会った「九つの物語」は、ご家族にたいしてはもちろん、聞いた人すべての人への応援歌、ふるさとへの応援歌だと思いました。


ぼくの歌は人生のさまざまなステージで直面した苦しみを乗り越えるために書いたもの。その意味でぼくの歌はすべてぼく自身への応援歌である。それが同時に聞く人たちへの応援歌になるとすれば、まさに望外の喜びである。

女声や男声の重唱部分が心地よく・・」と書いてくださったが、ほんとうにこのアルバムに対して、やなぎさん、辻井貴子さん、そして小山卓治さんが示してくれた全面的かつ献身的な協力には感謝してもしきれない。

本当に出会いの不思議に手を合わせたくなる。


Sunday, December 27, 2015

長男夫婦は朝から諏訪の温泉に行き、下社に詣でて午後戻ってきた。そして午後遅く川崎へ帰っていった。1泊2日の短い帰省だったが、忙しい二人がそろってきてくれたことに感謝。

先日『九つの物語』を注文してくださった方から、夜遅く、大船渡に住む友人に1枚送ってほしいという依頼のメールが入った。大船渡といえば、陸前高田のすぐ近くの町。3.11の大きな被害を被った町。おそらく「菅野有恒」を聞いてその友人に贈りたいと思ったのに違いない。彼女の友人がこの歌をどう受け止めてくれるか少々心配ではあるが、率直な感想をお聞きしたいもの。

今夜も柚子湯に入る。23日にたくさん柚子をいただいてから毎晩柚子湯に入っている。お湯は変えるが、柚子は同じものを何日も使っている。それでも香りは変わらない。というよりも、皮が柔らかくなり、破けて中身が出はじめているものもあり、ますます芳醇な香りが浴室を満たしている。素晴らしい贈り物をいただいたもの。家人はこの柚子が個人の家の庭の木になっていたもので、農薬がかかっていないことを特にありがたがっている。


Saturday, December 26, 2015

オーリアッド2015年最後のオープンマイク出演順(敬称略):丸山俊治、坂井俊水、原田和恵、赤羽真理、三浦久、長島功、丸山俊治 with 原田和恵、丸山俊治 with 赤羽真理、長島功、原田和恵、三浦久&薫子、三浦久 with 赤羽真理、原田和恵。






















オーリアッドの2015年最後のオープンマイク。みなさんのおかげで、なんとか1年間土曜日のみの営業を続けることができました。来年の最初のオープンマイクは1月9日です。

先日のマンダラ2での最後の年末ライブでは花束を2ついただいた。ひとつは舟木一夫さんの3人のファン、いわゆる「舟友」さんからで、もうひとつはカードが添えられていたが名前が書かれていなかった。おそらくぼくを密かに慕う美しい控えめな女性からだろうと想像していた。今日その謎が解けた。丸山さんが入ってくるなり、「マンダラ2へ花束をおくりましたが、届いていませんでしたか」と言う。はかなくもぼくの幻想は崩れ去ったが、誰から贈られたかわかってよかった。丸山さん、遅ればせながらありがとうございました。


                     ■

午後、訪問中の長男夫妻も一緒に、雅樹とスカイプで話す。彼はたくさんのクリスマスプレゼント見せてくれるのだが、興奮して話すものだから何を言っているのかよくわからない。リンや次男に通訳を頼む。彼らがわが家を訪問したのは5月の終わりからほぼ3週間。この半年ですっかり大きくなった。






Friday, December 25, 2015

午後、郵便局へ注文されたCDを出しにいき、その脚で、真金寺へ。和尚さんはお留守だったが、奥様に『九つの物語』をお渡しした。許可を得て、写真を撮らせてもらう。

残念だったのは、夕焼けには時間が早かったこと。夕焼けが真っ赤に谷を染めるときに写真をとりに行きたいものだ。

 
山お寺の鐘が鳴る
 夕闇迫る山里に
 谷を染める真っ赤な夕焼けに
 鐘の音の余韻が溶けてゆく











今日はクリスマス。子供の頃はクリスマスといえば、小さなケーキを囲んで紅茶を入れて、ささやかなお祝いをしたもの。懐かしい思い出。朝起きて枕元に玩具や僅かなお金が置かれていたことも。

次男から電話があり。雅樹にはたくさんのプレゼントが届いたよう。われわれからのプレゼントはレゴのセット。彼は4歳、まだサンタクロースを信じているだろう。


Thursday, December 24, 2015

加茂川の西側の道路を走りながら、「ガビオタの海」の最初のことばを書いたのは、このあたりではなかったかと考えていた。川の東側の堤防にすわり、川の流れを見たり、西山に沈む大きなオレンジ色の太陽を見たりしていた。

 
川の流れはとても静かだ
 葉を落とした木々が並んでいる
 黒いシルエットの枝の向こう
 オレンジ色の太陽が沈む




また山科を通ったときは、ぼくの2枚目のアルバム『漂泊の友』のジャケット写真を撮ったのはこのあたりだったと思い出した。このアルバムのアレンジャーは小椋佳さんのアレンジャーとして有名だった小野崎孝輔さん。クラシックのミュージシャンたちも大勢使って録音された。京都レコード社長の中川秀雄さんはかなりの額をこのアルバムに投資したはずである。それなのに残念ながら、ぼくは彼の期待に十分応えることができなかった。



中川さんが今どこにいるかわからない。できたら一度お会いして、彼がぼくのためにしてくれたことに対し、お礼が言えたらいいのだが。彼が今『九つの物語』を聞いたら
どんな評価をくだすだろうか。


Wednesday, Decemeber 23, 2015

午後、金子さんのお宅を訪ねる。頂き物の柚子のお裾分けのため。お元気そうで一安心。広い敷地を案内してもらう。確かに広い。ここを一人で管理するのは大変だろう。江戸時代に建てられたと思われる、太い柱や梁がむき出しの家も、威風堂々実に見事である。







7時から、歌声喫茶。今夜はメード姿のゲストが3人加わり、大賑わい。彼女たちは「あさが来た」のテーマ曲を歌う。ぼくもこの歌は好きだ。





歌声喫茶からもどり、今夜は一日遅れの柚子湯。3個入れただけだが、とてもいい香り。入浴剤とちがって、天然の香り。気持ちがいい。



明日は朝早く、京都へ。ぼくは日帰りの予定。家人は一泊することになりそう。


Tuesday, December 22, 2015

午後ずっしりと重い封書の手紙が届いた。先週金曜日、『九つの物語』をマンダラ2で購入していただいた方から。彼女は辰野町出身、東京在住。ほたる書房の田中さんの家の近くで生まれて育った人。

先日はあたたかい空間を皆様と共に過ごすことができて嬉しかったです。中でも「夢のブックストア」は在りし日のマーちゃんを思い出し、胸がいっぱいになりました。涙がとめどなく頬を伝いました。マーちゃんは大切なお友達でした。今、家で「九つの物語」を聞きながら、そして在りし日のマーちゃんの姿を思い浮かべながら、お手紙を書いています。辰野へ帰りたい思いでいっぱいです。

このCDには辰野のシンボルである王城山と天竜川が出てくる歌が2曲、辰野に言及する歌が少なくとも他に3曲入っている。「赤坂ホンダ」「信州蕗原赤羽の村」「30年前、この町にぼくは京都から戻ってきた」など。

この町はぼくが戻ってきた1982年にはもっと活気があった。今、ほたる書房があった駅前のメインストリートは見る影もない。望郷の念抑えがたく、戻ってくる人が、今後増えてくれればいいが。否、増えてもよし、増えなくてもよし。人も町も国も世界も、そして宇宙も、決められた軌道を進む。

補聴器の調子がわるくなったので、午後、家人と伊那の眼鏡市場へ。その結果わかったことは、ぼくが左右の補聴器を逆に入れていたということ。左の補聴器のほうが強いのに、それを右の耳に入れ、右の補聴器を左の耳に入れていたのである。突然、左の耳がわるくなり聞こえなくなったと思っていた。

今日は冬至。今朝、冬至の朝の写真を何枚か撮った。








Monday, december 21, 2015

朝起きて外を見る。小雨が降っているが、気温はそれほど低くない。+3℃。雪でなくてよかった。

今朝、注文されたCDを発送する準備。午後、家人に発送してもらう。

午後2コマのクラス。冬休み前、最後のクラス。後期で歌った全9曲すべて歌う。先日マンダラ2で、みなさんと一緒に歌う予定で実際は時間の関係で歌わなかった Turn, Turn, Turn も歌う。リハーサルで歌ったとき、ぼくの歌い方は早すぎるとやなぎさんに言われた。今日はゆっくり歌う。学生たちの歌声が一段と大きくなる歌がある。 Tom Paxton の The Last Thing on My Mind。ぼくも好きな歌だ。

夜、メールをチェックしたら『九つの物語』の感想が届いいていた。

「九つの物語」、どの歌も素敵だと思いましたが、特に「旅立つおまえに」「あの果てしない大空へ」がいいと思いました。今はいない父のことを思い出し、涙が出ました。

これは嬉しい感想である。ぼくの家族のことを歌った個人的な歌が、受け入れられるか心配していた。この方は亡くなったお父さんから励まされたと感じたのかもしれない。あるいは幼い娘時代に、お父さんから言われた言葉を思い出したのかもしれない。


Sunday, December 20, 2015

昨夜は7時間近くぐっすり寝たので、朝起きたときはずいぶん身体が楽になっていた。

先日のライブの感想がemail や facebook でいくつも届いている.。

●年末ライブには合計6回しか伺えませんでしたが、今回の年末ライブを一番楽しませていただきました。後半、やぎたこさん達がバックに入られ、いつもの三浦さんだけの音とは違う中で歌を聞けたのも大変気に入りました。ミン君の歌も楽しみました。リンゴとミカンとどっちが好きかと聞かれて、リンゴと答えたために、信大行くことになったところが面白かったです。

●遺言は何度書き換えてもいいので、これからも歌い続けてください。

●とても素晴らしいライブでした。CDは昨夜聞きました。素敵でした。来年小山卓治さんのライブでオーリアッドへ伺うときは、奥様も一緒に「旅立つおまえに」を歌ってください。

●初めて年末ライブに参加したのは、河島英五さんが亡くなり、「千の風」のアルバムが出来たときです。「紙ヒコーキ」「千の風」を聞いて涙が溢れたのを覚えています。先日も、その時と同じ席にすわってお聞きしました。一部は三浦さんのフォークシンガーの歩み。二部はサポートメンバーが入って『九つの物語』。とてもいいライブでした。

●とにかく今回の三浦さんのライブは3時間弱にも及ぶ力のこもった素晴らしいライブで大満足でした。まだまだライブで聞いたことのない曲がたくさんありますので、次回がいつになるか分かりませんが、楽しみにしています。


●三浦さんは長年ブルース・スプリングスティーンの対訳をされていますが、僕の好きな This Hard Land という曲の Stay hard, stay hungry, stay alive という部分を「辛いかもしれないがしっかり生きて欲しい」と訳されていました。当時僕は高校生で、恵まれた少年だったのかもしれないけれど、この歌詞を何度も読んで噛みしめていました。

ちょっと意訳し過ぎかもしれないが、へえ、そんなふうに訳していたんだとびっくりぽん。Bobby Jean の最後の一行 Good luck, good bye, Bobby Jean を「元気で、さよなら、ボビー・ジーン」と訳したのと同じくらい斬新だ。自画自賛。

岡本おさみさんの訃報を聞いて思い出したことがある。 Born in the USA がリリースされた1984年か85年のことだったと思う。庭で働いていると、家人から「電話よ」と呼ばれた。あわててサンデッキに上り、外から受話器を受け取った。「もしもし、お待たせしました三浦です」というと「岡本おさみです」と受話器の向こうの声が言った。「あなたの訳したスプリングスティーンのボビー・ジーンをラジオで朗読したいんですが、いいでしょうか」。もちろん異存があるはずがない。「ええ、もちろんです」。たったそれだけのことだったが、そのとき、とても嬉しかったことを覚えている。ぼくの訳が著名な作詞家から認められたような気がしたのである。


Saturday, December 19, 2015

昨夜は、残った人たちでささやかな打ち上げをした後、マンダラ2のマスター中野さんに22年のお礼をいい、ホテルへ。



札幌からきてくれた川股君も同じホテルとのことで、荷物を部屋に置き、近くの居酒屋へ。2時まで飲み、話した。今朝食事を一緒にとる約束をしていたが、ぼくが寝過ごしてしまい、空港へ急ぐ彼とホテルのレストランの前で別れた。次は「ほたる祭りライブで会いましょう」と彼は言うが、「ほたる祭りライブ」についてはまだ何も考えていない。

11時、チェックアウトし、新宿へ。高島屋、東急ハンズで少々ショッピング。1時半のバスに乗り、辰野へ。やはり辰野は寒い。しかし、爽やかだ。東京は電車の中も、建物の中も、暖房がききすぎている。やはり、冬はある程度の寒さは必要である。

予想以上に大勢の方々がきてくださった。『九つの物語』のCDは前もって40枚送り、当日10枚持参した。家人によれば、残ったのは7枚とか。電車に乗り遅れたらいけないと、待ちきれずに買わずに帰った方もいたようだ。

一応何を歌うか考えてはいたが、前半も後半も、かなりその場の成り行きで順番が決まった。期せずして、前半のトップは「風に吹かれて」、後半のトップは「電線の鳥」だった。

前半の歌で特に評判がよかったのが「ミン・オン・トゥイーのバラード」。どうしてもこの歌を最終回の年末ライブで歌いたかった。というのは中断していた歌の活動を再開したのは純ちゃんとミン君と出会い、2人のことについて歌を書いたからだ。「純ちゃん」は昨年歌った。それで今年はこの歌を歌うことに。それにミャンマーが民主化された年でもあったので。

しかし、この歌は長い。はるかに10分は超える。それで考えた。詩の朗読のように前半を読んだらどうだと。その結果、時間が短縮されたばかりでなく、後半を盛り上げる効果があった。

夜、うとうとしながら、この日記を書いている。疲れた、今夜はもう寝よう。


Friday, December 18, 2015

みなさんのおかげで素晴らしいマンダラ2フィイナルライブになった。22年間の幕を閉じた。感慨深いものがある。










Thursday, December 17, 2015

いよいよ明日。22回目の、そして最終回の、三浦久年末ライブ in 東京。あのねのねの清水君のプロデュースで第1回目が行われたのは、94年12月21日。信州に戻ってから最初のアルバム『セカンド・ウインド』を、クニ河内さんの協力を得てリリースしたのはこの年の2月のことだった。

その半年後、清水君が辰野町へ講演に来た。講演後わが家に来てもらった。久しぶりの再会だった。四方山話のなかで、どこか東京で歌えるところがないかと聞いた。その後、彼の事務所がすべて取り仕切ってくれて、「三浦久ライブ ― 今、風が向きを変える」が実現した。清水君のパブリシティのおかげで、会場のマンダラ2は超満員だった。彼が作ってくれたポスターは今でも仕事部屋の壁に貼ってある。




1回限りの予定だったが、次の年も同じ時期に、ぼくが主催する形で「年末ライブ in 東京」と名前を変えて行った。その後毎年この時期に行うようになった。清水国明企画のライブを第1回と数えて、今年で22回目になる。

1回目のときは49歳だった。今、70歳。気分的には若いつもりでも、肉体的衰えは否めない。眼耳鼻舌身意すべて衰えている。

昨年のライブのあと、盲腸の入り口のまわりにあった5センチほどのポリープを切除してもらった。大きなポリープは癌になっている可能性が強いと前もって言われていた。それでも退院直前、やはり癌だったと検査の結果を知らされたときはショックだった。完全に取り除いたので心配ないといわれたが、その後しばらく落ち込んだ。

遺言のようなアルバムを作りたいという今回のアルバムのアイディアは、そこから生まれてきた。昨年の年末ライブの打ち上げのとき、小山卓治さんとコヤママサシさんがアルバム制作の協力を申し出てくれていたが、最終的に具体化したのは、丸山俊治さんの紹介で「やぎたこ」のやなぎさんと辻井さんが5月にオーリアッドで演奏するのを聞いてからである。しかも、やなぎさんは、多くの人からCDにしてほしいといわれていた「菅野有恒」さんの友だちだったのである。

エンジニアはいつものように石崎信郎さん、 disc とブックレットのデザインはコヤママサシさん、その制作をoff note の神谷一義さん、ミュージシャンは、やぎたこのお二人と小山卓治さんにお願いすることにし、レコーディングが行われたのは9月3日と4日。若干の手直しを10月13日に行った。







やなぎさんは率先してアレンジャーとディレクターの役割を務めてくれ、いくつかの意見や好みの違いを超えてすばらしいアルバムに仕上げてくれた。辻井さんのピアノとボーカル、小山さんの歯切れのいいギター、やなぎさんのバンジョーとフィドルなどが渾然一体となって、素晴らしいアルバムになった。

これ以上のレコーディング・チームはなかった。まさに、「遺言」のような見事なアルバムができあがった。

明日のマンダラ2には、やなぎさん、辻井さん、小山さんがミュージシャンとして、石崎さんは録音のため、コヤマさんはフォトグラファーとして参加してくれることになっている。

アルバムのダイジェストをオヤマさんとコヤマさんのチームが作ってくれ、今朝YouTubeにアップされた。これもとてもいい。ダイジェスト版『九つの物語』

みなさんの献身的なご協力に対し感謝してもしきれない。



Wednesday, December 16, 2015

午後2コマのクラス。今日は後期最後の歌 Turn! Turn! Turn! この厭世観に満ちた「伝道の書」3章1-8節の最後の一行に手を加えることで、ピート・シーガーはこの歌を反戦平和の歌に変えてしまった。

    A time of peace, I swear it' not too late.
    平和のとき、誓ってもいい、まだ手遅れじゃない

帰路 TSURUYA に寄り、6時過ぎ帰宅。2階に上がりメールをチェックしたら、北海道の川股君から18日にマンダラ2に来ると書かれていた。

念願だったマンダラでの年末ライブ、今年最後と聞いて行くことにしました。新しいアルバムからの曲が中心だと思いますが、出来たら昔の曲も歌ってもらえたら・・・私のリクエストは「パーティーは終わったよ」「流転の唄」もうゲームはしないよ」「私は風の声を聞いた」の中から一曲でも。三浦さん自身、異論はあると思いますが、そして最近の曲をと思われるでしょうが、これらの曲は隠しておくには惜しい名曲だと思っています。他の人たちにも知らせたいです。
 
彼のリクエストの最初と最後はやるつもりでいる。しかし、他の2曲、特に彼は「もうゲームはしないよ」がお気に入りのようだが、難しいかも。隠しておくつもりはないのだが。

川股君は、ぼくがまだ京都に住んでいたころ、ぼくが『ユリイカ』のボブ・ディラン特集に書いたエッセイが気に入ってくれて、北海道から京都まで会いにきてくれ、退職金をはたいて、ぼくを札幌へ呼んでくれた。彼はその後、家具職人になって活躍している。

彼が札幌で開いてくれたコンサートのチケットは今でも仕事部屋の壁に貼ってある。1980年か81年の3月28日のこと。バイオリンの中井君と二人で新幹線、特急、連絡線と乗り継いで札幌まで出かけた。新幹線は遅れ、特急の乗車券をぼくが見失い、ばたばたした珍道中だった。東京駅で中井君が新幹線の特急券を払い戻してもらってきて、感心した。乗車券は青森駅に着くまでに、駅弁の箱の裏にくっついているのを見つけた。今となっては懐かしい思い出。


Tuesday, December 15, 2015

朝7時40分、電話で起こされた。寝ているときは補聴器をとっているので、電話の音は聞こえない。家人に揺り起こされ子機を渡される。「飯島さんからよ」。去年の同窓会で歌ったとき「菅野有恒」を褒めてくれたので、無理とは思いながら18日のライブの案内を出しておいたのである。案の定「残念だけれど重要な会議があって行けない」とのこと。

電話を切ったあと思い出した。今朝は中学へ読み聞かせに行く日。飯島君の電話がなければ、寝過ごしていた。何を読むか急いで決めなければならない。ワードの「読み聞かせ」のファイルを開き、いくつかのリストの中から、宮沢賢治と斉藤宗次郎について書いたものをプリントアウトする。顔をさっと洗い、車に跳び乗る。すでに他の朗読者たちは廊下を歩いて教室へ向かっている。係りの先生に何を読むかと聞かれ「雨ニモマケズ」と答える。

2年生のクラス。教室に入っていくと、若い先生が「サンタクロースがきたかと思いました」という。生徒たちがどっと笑う。サンタクロースほど太っていないし、髪もそれどほ白くないぞと思ったが、その一言で雰囲気がなごやかになった。「雨ニモマケズ」のモデルだったといわれる斉藤宗次郎について読み、最後に「雨ニモマケズ」を歌う。歌い終わると、盛大な拍手。他の朗読者も一様に中学2年生が一番難しいと言うが、今日はぼくの伝えたいことが伝わったようだ。サンタクロースも悪くないかも。

午後、ゆっくり新しいCD『九つの物語』を聴く。今までのアルバム制作のときと比べると、今回はぼくの反応は逆である。今までは、アルバムを録音している間は、かなり興奮したが、出来上がってきてからは、徐々に熱が冷めていった。今回は、制作中は、周りから「とてもいいですね」といわれても半信半疑だった。その理由のひとつは補聴器のせいだったと今わかる。音が正しく届いていなかったのである。昨夜補聴器のイヤーチップを替えてもらってから、急に音がよくなった。

今日は何度か繰り返して聴いたが、実にいいアルバムだと実感した。それは、採算無視で全面的に協力してくださった石崎さん、やなぎさん、辻井さん、小山さん、コヤマさん、そして神谷さんのおかげである。

昨夜遅く、神谷さんからCDの推薦文が届いた。彼一流の難解な文章であったが、素晴らしい文章だった。ようやく彼に認められたかもしれないと思った。

 
最初に送られてきたラフミックスの一曲目「電線の鳥」の第一声を聞いたとき、烈しく心が揺さぶられた。その刹那、濾過された時間の堆積がエーテルとなって渇いた心の襞にじわじわと沁み込んできた。不覚にも涙溢れる。 
 はじめからそこにいたような自然な空気を醸しているが、未だ出会ったことのない九つのものがたりたち。かれらはひとりの唄うたいが歩んできた永く厳しかった道程を訥々と物語る。素朴だが凛と響く唄声の裡に宿った漂泊のバラッドは今でも「唄の故郷」「初原の風景」を伝えて止まない。
 唄の初志と成熟。したたかさとしなやかさと。この達成を最早、フォークとは呼ぶまい、唄うたいが半世紀の生々流転を経てようやく辿り着いた「遊芸往来」「行雲流水」の境地。過去と未来を繋ぎ現在を生きる唄うたいの姿がたしかにここに在る。


Monday, December 14, 2015

今日はMasaki George Miura の4歳の誕生日。8時過ぎ(ニュージーランド時間では12時過ぎ)、Skypeが入った。ここ数ヶ月、家人もぼくも多忙を極め、Skypeを使うこともなかった。大きくなった。少年の顔になりつつある。次男が後ろで見せてくれている自転車はわれわれからのプレゼント。クライストチャーチは自転車王国。クライストチャーチ・ボーイズ・ハイスクールの男の子たちが、縦縞のブレザーを着て、ヘルメットをかぶって、颯爽と自転車に乗って通学する姿ををよく見かけた。雅樹もいずれ自転車に乗ってクライストチャーチの町を走り回るだろう。



午後2コマのクラス。その帰り、再び眼鏡市場へ。金曜日に補聴器を調節してもらったら、音はクリアーになったが、音を下げたのでよく聞こえなくなってしまった。学生が話しかけてきても、何度も聞き返す始末。特に右耳の補聴器がよくない。担当の方といろいろ試した結果、わかったのは、イヤーチップが大きすぎて耳の穴にしっかり入っていなかったということ。両方ともワンサイズ小さなものにしたら、耳の穴にしっかりおさまった。帰ってきてテレビをつけたら、いつもより小さな音でもよく聞こえる。ありがたい。よかった。

「第22回(Final)三浦久年末ライブ in マンダラ2」 はいよいよ今週の金曜日。コヤママサシさんの熱烈なパブリシティーの支援を得て、多くの人たちがきてくれる予感。ありがたい。

『九つの物語』のオフィシャルの発売日は昨日の12月13日。予約を含め、幸先のいい滑り出し。何よりも、CD制作に携わってくださった方々の熱心なサポートのおかげである。


Sunday、December 13, 2015

昨夜、飯田で演奏したという種子田さんとローラさんが訪ねてきてくれた。種子田さんには『ガビオタの海』制作の際、おせわになった。ローラさんとは初対面。バークリー音楽大学で学んだ有望なミュージシャンとのこと。ハーフのような顔立ち。でも生粋の日本人とか。












Saturday, December 12, 2015

Open Mike: 初回出演順に(敬称略)、中山一美、中川政秀、林知洋、坂井俊水、すきっぱー赤羽、三浦久、伊藤○○。この他に名前と写真を出さないでほしい人が1名。

















スキッパー赤羽さん、3週間ぶりの登場。いきなり、初回、3曲の新曲。その旺盛な創作意欲に驚かされる。同時に、羨ましい。かつてぼくも1年に27曲を書いたことがあったが、最近ではいくら頭をしぼっても何も出てこない。しかしスキッパーさんに触発され、来年はいい歌が書けるかも。

昨日行った「男の運動教室」でお会いした中村豊さんが友だちの伊藤さんと聞きにきてくれた。休憩時間にお話をうかがうと、伊藤さんは旋盤事故で指を落としながらも、クラシックギターを弾くとのこと。今度はギターをもって演奏しにきてほしいとお願いする。彼が今夜演奏した若者たちの演奏がとてもよかったとおっしゃるので、是非、彼らを励ます意味で、一言話してほしいとお願いする。

坂井くんの伴奏で林君が「乾杯」を歌った。なかなかよかった。また歌ってほしい。


Friday, December 11, 2015

朝から雨。季節的には氷雨だが、今日は12月とは思えない暖かさ。



朝9時半から2時間、「男の運動教室」へ行ってきた。今日から始まる全7回の高齢者向け講座。咳がまだ少し残っていたが、今日が初回なので、思い切って行くことに。行ってよかった。ストレッチをし、それから健康度チェック。片足立ちや10メートルを全力で歩くことや、40cmの台を上ったり下りたり。





最後に椅子にすわたままでのストレッチをして終了。かなり気分がよくなった。

午後、伊那の眼鏡市場まで補聴器の調整をしてもらいに行く。右側の補聴器の高音を前回少し上げてもらったが、それ以来ときどきハウリングをおこしたり、音が割れたりするようになった。調節してもらったら、音がクリアーになった。無料で何回でも調整してもらえるのはありがたい。


Thursday, December 10, 2015

小山卓治さんが、新しいCDの推薦文を書いてくれた。

三浦さんの新しい楽曲と代表曲、そしてご家族のために作ったパーソナルな歌をセレクトしたアルバムが完成しました。僕もアコギとコーラスで参加させていただきました。パーソナルであるということは真実への一番の近道だと、三浦さんの歌声を聴きながら思い知りました。レコーディングに入る時に三浦さんは「このアルバを僕の遺言のような作品にしたいんだ」とおっしゃいましたが、それには承服しかねます。三浦さんと知り合うことができて、まだ2年半。もっと三浦さんの歌が聴きたい。もっと話したい。何気ない言葉に耳を傾けたい。そして、もっと一緒に音楽を奏でたい。このアルバムを聴いたみなさんが、同じように思ってくれることを祈っています。

ありがたいことである。あとはCDの到着を待つばかり。


Wednesday, Decemb er 9, 2015

今朝、目覚めると、ありがたいことに、かなり気分がよかった。喉のいがらっぽさが減っている。午後2コマのクラス。授業中、ほとんど咳が出なかった。2コマ目のクラスの終わりごろ、疲れがでたのか少し咳こんだ。でも昨日に比べるととても楽だ。今回ばかりは、西洋医学の即効性がありがたい。

水曜日のクラスは23日が祭日なので、冬休み前の授業は来週が最後。あれもしようこれもしようと思っているうちに、何もできないうちに終わってしまいそうだ。

早く寝ることにしよう。明日はもっと元気になっていたいもの。


Tuesday, December 8, 2015

11時に病院へ。かなり待たされ、診察を受けたのは12時半、それから気管支炎をなおす抗生物質の入った点滴を打ってもらう。処方されたたくさんの薬を薬局へ受け取りに行って家に帰ったら2時を過ぎていた。今日から医療費が2割負担になるとのことで、診察代も薬代も思いのほか安かった。70歳になったのだ。

遅いお昼を食べたあと薬を飲む。少し気分がよくなったような。処方された薬は、いつものオルメティック(血圧)、ハルナール(利尿)を除いて、ムコダイン錠、メジコン錠、レスブレン錠、麻黄湯、クラビット錠。いずれも咳を鎮め、痰を切る薬。これだけでお腹いっぱいになりそう。

なんとしても12月18日までには直さなければ。今年で最後の22回目の年末ライブ。振り返ってみれば、ライブの直前に風邪を引いたこともあるし、突発性難聴になったことも。でも不思議に当日は直っていた。

夜、明日のクラスの準備を少し。今夜はお風呂をやめておこう。


Monday, Decemb er 7, 2015

午後、2コマのクラス。今日も最初は「テストのようなもの」から。Humans of New York からの出題。シリアの女性がアメリカのノースカロライナ州へ難民として受け入れられ、移住する話。何も知らないアメリカへ移住することの不安と、何がまっていようとも、今まで経験してきたことより悪いことはないだろうという希望が述べられている。

そのあと、5 Paragraph Essay の書き方を説明し、それに関するビデオを見る。ぼく自身、大いに勉強になる。

帰路、ホームセンターにより、純正インクを購入。今朝、黒のインクがなくなり、廉価な互換インクを使ったら、まだらに印刷されて出てきた。過去に何度か懲りたはずなのに、つい値段につられて安いものを使ってしまう。

体調はすこぶる悪い。授業中も咳が出て何度も話を中断し、のど飴をなめたり、水を飲んだりした。

夜は、蜂蜜レモン、葛根湯、龍角散、シオノギのPL、家にあるありとあらゆる風邪の薬を飲む。明日は病院へ行ったほうがよさそうだ。マンダラでのライブは来週金曜日。


Sunday, Decemb er 6, 2015

寒風吹きすさぶ中、3の畑の野沢菜を採るのを手伝う。家人はそれを包丁で切りそろえ、桶に漬け込む。ここに引っ越して33年。家人はすっかり信州の人。野沢菜の漬物が上手になった。





午後、サンデッキの雨にあたる部分にペンキを塗る。新しい板にはきれいに塗れるが、古いささくれだった板はペンキを吸い込んでしまって、均等にぬれない。色のバランスが悪くなる。



夜、「下町ロケット」を見る。これで3週連続。途中からだが、面白い。

古いコンピュータをようやく机の上から撤去した。これで少し机のスペースが広がった。



Saturday, December 5, 2015

オープンマイク:初回出演順に(敬称略)、丸山俊治、重政知志、赤羽真理、中島樹(ダンたつる)、粟津原由子、三浦久。愛知県からやってきたブルーズシンガー中島さんが、元気な歌声を聞かせてくれた。丸山さんは新曲を歌ってくれた。老いてますます深みをましてきたようだ。重政さんの「どうも!」は今日はないのかと思ったら、やはり出た。




















Friday, December 4, 2015

朝、雪景色が撮れるだろうと期待しながら、外を見たが雪は積もっていなかった。それでも雪は舞っていて、写真を撮ると流星がいくつも飛んでいるように見える。






Thursday, December 3, 2015

夜遅く、デッキに出ると雪が舞っていた。部屋にカメラをとりに行き、写真を撮る。フラッシュをたくと、雪片が反射して星のように見える。いつものことながら、フィービーも様子を見に出てきた。







Wednesday, December 2, 2015

午後2コマのクラス。中間試験を返す。ひとつのクラスでは George Washington Carver についての文章を読む。彼のケースからもわかるように、奴隷制時代の奴隷所有者がすべて酷い人種差別主義者だったわけではない。彼のオーナーは寛大な人で、彼にできるだけ教育を受ける機会を与えてくれた。彼は最終的にはアイオワ農業大学で学び、卒業後も請われて学校に残り研究を続けた。その後彼はアラバマ州のタスキギー大学へ移った。彼は綿の連作が土壌を衰えさせといるとつきとめ、別の作物とくにピーナツを植えることを推奨した。そしてピーナツの食べ方を300以上考えたという。ピーナツバターも彼の発明である。

夜、新しい歌を書こうとがんばったが、in vain。家人のアドバイスを受け入れ、まだ完成していなかった「ありがとう、ミスター・コーエン」を手直しすることに。この歌は中東フォックステレビのヨナット・フリーリーさんが、テルアビブでのレナード・コーエンのコンサートを聞いて書いた新聞記事をもとに、彼女の許可を得て歌にしたもの。

驚いたことが2つある。ひとつはこのコンサートが2009年の9月に行われたということ。もう6年も経ってしまったのだ。もうひとつは
、この歌のヴァースのひとつが、現在の中東の情勢にも当てはまるということ。

  そう生きざるをえなかったのです
  果てのない殺し合いを見てきたので
  自爆テロ、報復、難民キャンプ
  血なまぐさい毎日を生きてきたので

 
Tuesday, December 1, 2015

良い天気ながら寒い一日。

朝から明日返す中間試験の採点。今年は4コマで助かる。昨年は6コマ担当していた。採点だけで膨大な時間がかかってしまった。

昼過ぎ、サンデッキに防腐剤を塗ろうと、町のホームセンターへ。防腐剤一缶とシンナーを一缶買う。帰ってきて塗ろうと思ったが、あまりにも風が冷たくて断念。午後1時間ほど昼寝。

終日採点。

明日からはマンダラ2での最後の年末ライブの準備をしなければ。新しい歌を書きたいきぶんにもなってきた。がんばろう。

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