外国語の学習について


頭の中には、2月の後半に旅したベトナムの余韻がまだ充満している。かなりのインパクトを受けたことが分かる。とにかくその混沌としたエネルギーに圧倒された。生きる意欲と言ってもいい。

ベトナムへ行く前に、ニュージーランドのクライストチャーチという町に数日滞在した。この町は別名ガーデン・シティと呼ばれ、町中が公園のように美しい。整然とした街路、花の咲き乱れるフロントヤード、色とりどりの洒落た家々。十年ほど前にこの町を初めて訪れた時、こんなに美しい町がこの世にあるのかと思った。

振り返ってみれば、ぼくは物心ついた頃から常に西洋的な美、クライストチャーチ的な美を求めてきたような気がする。ところがベトナムの混沌というか無秩序というか、あらゆるものの混在を目の当たりにして、それまでの価値観が覆されてしまったかのようだ。

確かに、清潔、整然、均整、安全は、望ましいものに違いない。しかし、もしそれが徹底的に追求されるならば、その結果得られる世界は、かなり息苦しい無機質なものになってしまうように思われる。そこに人間のぬくもりを感じるのは難しい。人間はその世界の一部というよりも、そこから排除されている。そのような世界では、人は急速に生きる意欲を失ってしまうだろう。

勿論、ニュージーランドがそうだということではない。しかし、自殺する若者が少なくないと聞いたことがある。ひょっとしたらそのことは今まで述べてきたことと無縁ではないのかもしれない。

そしてそれは、現在の日本が直面している様々な問題―経済不況、学級崩壊、いじめや引きこもり、学習意欲の低下等―とも関係があるように思われる。

サイゴン河のほとりの大通りをシクロ(人力三輪車)に乗ってゆっくりと進んでいた時、自転車に乗った母親と五歳ぐらいの男の子が近づいてきて、しばらくシクロと並走しながら、絵葉書を売ろうとしたことがある。荷台に乗った男の子が身を乗り出して、絵葉書を差し出し、日本語で、「おとうさん、きれいよ、きれい」と叫んだのである。驚くと同時に、語学をやるにはこのくらいの積極性が必要だろうと思った。

また、かつて父親が南ベトナム政府軍の兵士だったというメコンデルタツアーのガイドの若者は、乏しい語彙を駆使して見事な英語を話した。メコン河をさかのぼる船の中で彼はぼくの横に来てすわり、身の上話をしてくれた後、「よりよい仕事につくためにもっと上手に英語を話せるようになりたい」と言った。彼にとって英語を学ぶということは生活と直結した切実な問題なのである。

60年代、ゼン・マクロバイオティックという食物療法で一世を風靡したジョージ・オオサワは、『永遠の少年』(日本CI協会)という本の中で、外国語の学習ということに触れ、「学校英語は実用にはならないし、金と時間はかかるし、そうかといって本格的でもないのだからやらない方がトクです。ではどんな勉強法がよいかといえば、自学自習です」と述べている。

明治26年に京都に生れたオオサワは、幼くして両親と死別し、生活のために、「寺の小僧、煙草屋の店員、牛乳配達、船乗り、貿易商になり」、世界各国を訪れ、多くの外国語を学んだ。英語、フランス語、スペイン語、ギリシャ語、ラテン語、ロシヤ語を学んだという彼は言う。「いずれも自学自習が原則です。英語以外はみな、最初1か月くらい、発音を習うために先生につく必 要がありますが、それ以上害こそあれ、益のないことを私は断言します」と。

語学の学習は自学自習、それにつきるとぼくも思う。しかし、オオサワも述べているように、外国語を勉強する時に不可欠なのは正しい発音の学習である。発音だけは、英語の学習も含めて先生について学んだほうがいい。

これも今の時代であれば、テープやCDの教材が豊富なので、独習も可能であろう。しかしぼくの経験では時間がかかりすぎる。いい発音の先生につけばオオサワの言うように20時間の授業で、いや10時間の授業で基本的に必要なことは身につけることができる。

よく学生に「英語を勉強するために先生はいらない」と言うことがある。日本の大学は語学をやるには最も不適切な場所である。多くの時間が無駄に使われている。オオサワは言っている。「自学自習、自問自答でなくては、ほんとうの学でも問でもありません」

ジョージ・オオサワの外国語学習方法は、『古代への情熱』(岩波文庫)に書かれているシュリーマンの学習方法に酷似している。そして外国語習得のための二人の並々ならぬ努力を支えたものは、何よりも、彼らが持っていた大きな夢であった。シュリーマンには、当時誰もがその実在を信じていなかったトロイの遺跡を発掘したいという夢があった。オオサワには、自らの病を治した食物療法を世界の人々に伝えたいという夢があった。

オオサワは、自学自習を継続することができるためには、「大きな、大きな夢、押さえきれない情熱」が必要であると言っている。それなしに、いかなる教育法も、教材も、どんな優れた教師も、効果はないであろう。

『金持ち父さん貧乏父さん』(筑摩書房)という本が売れている。百万部を超える勢いである。そのうちの一冊はぼくが購入したものだ。最初のうちは夢中になって読んでいたが、途中から何かおかしいと思い始めた。自ら働かなくても、お金がお金を生む方法を教えるこの本が売れるということ自体、今の日本の社会が抱えている問題を浮き彫りにしている。子供たちの学習意欲の欠如は大人社会の生きる意欲の欠如と直結している。そしてそれは先進国と言われる国々に多かれ少なかれ共通する問題であるように思われる。

文明の進歩と衰退は歴史の中で何度も繰り返されてきた。どこかにそれに歯止めをかける方法はないものだろうか。


To OREAD Homepage