矢が遠くまで飛ぶためには、しっかりした弓が必要である 映画『フィールド・オブ・ドリームズ』の主人公レイ・キンセラは、三歳のときに母を失い、父に育てられました。野球選手になることが夢だった父は、幼いレイを寝かせつけながら、マザーグースの代わりに、ベーブ・ルースやルー・ゲーリックなどの話を聞かせます。そしてレイが物心つくようになると、キャッチボールを強要します。彼は十四歳になる頃にはすっかり野球も父も大嫌いになっていました。 彼が父を否定するようになったもうひとつの理由は、父親が生きる屍のように未来に対する何の夢も希望もなく生きていたからです。徐々に彼は、父親のようにはなりたくないという思いを持つようになります。 大学に行く歳になったとき、二度と父の顔を見る必要がないように、彼は、自宅のあるニューヨークから一番遠いカリフォルニア大学を選びました。しかしやがて彼は、罪の意識を持ち始めます。そして父と和解するために、何度か家へ戻ろうとするのですが、父との再会を果たしたのは、大学を卒業してから数年後、父の葬式のときでした。 やがてレイは結婚し娘が生まれます。そして何年かが経ち、彼は気づきます。妻と子とローンを抱え、嫌っていた父の二の舞になりそうな自分自身の姿に。そこから彼の本格的な父との和解の旅が始まります。 ぼくの父は、ぼくが生まれる四十九日前に不慮の事故で亡くなりました。父の膝にすわったこともなければ、手をつないで歩いたこともありません。父の姿は写真でしか知りません。しかし、父がいないということは、生まれながらのことでしたから、悲しいと思ったことはありませんでした。 ところが、小学校五年の秋、授業中に突然、父がいないという事実がぼくを襲い、涙が頬を伝ったことがあります。おそらく、思春期に入る歳になり、父の不在を現実のものとして認識できるようになったのでしょう。教室で先生が言った言葉か、友だちが父親について語った言葉を聞いて、突然悲しくなったのだろうと思います。 その後も父のことを思って悲しくなったことは何度かありますが、レイ・キンセラのように、父を否定したり嫌悪したりする理由はありませんでした。しかし、その後のぼくが生きてきた足跡を振り返れば、ぼくの人生は、見えない父を探そうとするプロセスだったように思います。 二十四歳のときに書いた「父よ」という歌を、父が死んだ歳をはるかに超えた今また歌うようになりました。 父よ、あなたが残した遺産はないけれど あなたはすべてを与えてくれた 夜明けの太陽、風に舞う鳥、雨に打たれる花 それらを美しいと感じる心を与えてくれた この二番の歌詞は、数年前にこの歌を再び歌うようになってから大幅に修正しました。それは、ふたりの息子を育てた経験を通して、命の連続というものを強く感じるようになったからです。あたりまえのことですが、ぼくの命は、父があって、初めてここにあるということに気づいたのです。 And a woman who held a babe against her bosom said,"Speak to us of
Children."
「もし今あなたが悲観的な気分に苛まれていたら、確実な治療法があります。バーミンガムやミシシッピーやアラバマへ行きなさい。そこに住んでいる人たちを助けに行きなさい」と言って、ピート・シーガーは1963年にリリースされた実況録音盤の中で、「ウィ・シャル・オーバーカム」を歌い始める。 人はそれぞれ落ち込んだ気分から逃れるための治療法を持っているに違いない。ぼくにもいくつかある。ボブ・ディランの歌を聞くこと、裏山を走ること、積んでおいた本を一気に読むことなど。最近新たに、極めて有効な治療法を見つけた。それは、ピート・シーガー風に言えば、「もし悲観的な気分から逃れたいと思っているなら、ベトナムへ行きなさい」ということになる。 2月の終りにベトナムへ行ってきた。かつてサイゴンと呼ばれた街に一週間滞在した。戦争博物館や戦争孤児のための施設を見学した。また、クチという村にある戦時中に掘られた地下トンネルを見に行ったり、メコンデルタツアーに出かけたりもした。 60年代後半、カリフォルニアに住んでいた。だからベトナムには以前から関心があった。後年対抗文化と名づけられた若者文化はベトナム戦争抜きには考えられない。 1967年の夏、ヒッピー発祥の地、ヘイト・アシュベリーへ行ったことがある。その街角に立った時、その混沌と喧燥に圧倒された。通りは汚い格好をした長髪の男女で溢れ、公園ではコンサートが開かれ、人々は思い思いの方法で楽しんでいた。どこでも、見知らぬ人が「ピース」と言いながら微笑みかけてきた。ドラッグはいらないかと声をかける者もいれば、小銭を恵んでくれと近寄ってくる者もいた。 かつてサイゴンと呼ばれたその街で目撃した光景は、30数年前、ヘイト・アシュベリーの街角で目撃した光景に似ていた。そして、昭和20年代から30年代にかけて経験した信州の田舎の町での生活、貧しいけれども誰もが助け合いながら必死に生きていた生活をも彷彿させた。 道路という道路は、自動車、バイク、自転車、それにシクロ(人力三輪車)であふれていた。信号がない交差点が多く、四方からあらゆる乗り物が殺到してくる。歩行者優先という概念は存在しない。道路を横切るのは命がけ。ぼくは悲鳴の上げっぱなしだ。 人々は、老若男女みんな働いている。道の両脇にある店の他に、路上にも、様々な品物が並べられている。観光客を目当てに、みやげものを売り歩く者、新聞を売り歩く者もいる。両腕に抱えた「許可なく複製された」廉価本を売り歩く者もいる。著作権という概念は存在しないのだろう。複製されたCDも1枚1ドル。ビートルズもディランも何でも1ドルだ。 その間を物乞いが歩き回る。片足を失って松葉杖をついている者。枯葉剤ゆえか目をそむけたくなるほどに折れ曲がった身体をかろうじて台車に乗せて、手で漕ぎながら進んでいる者もいる。 買い物をして、財布を取り出すと、どこからともなく手が伸びてきてお金をせびられる。たいていは拒否したが、あまりにも気の毒で断れないこともあった。生まれたばかりの赤ん坊を抱いた顔色の悪い母親から「おとうさん」と呼び止められ、思わず小銭を渡したこともある。後でその話を親しくなったレストランのオーナーにしたら、「多くの場合、赤ん坊はレンタルだ」と言われ唖然とした。 買い物をする時は、値段の交渉から始めなければならない。値切るということに不慣れなぼくは、法外な値段で買わされたことが何度かあった。35ドルと言うのを30ドルまで値切って買った鐘が、翌日他の店では10ドルだった。 そんなくやしい思いをしながらも、その町を後にする日が近づくにつれ、不思議なことに気づいた。落ち込むどころかとても元気になっていたのだ。なぜだか分からなかったが、空港で買い物をしている時、その答が分かった。空港での買い物は自動販売機で物を買うのとほとんど変わりがなかった。人間的なかかわりが一切なかったのだ。この街で元気になったのは、嫌なことも含めてすべての経験に人間的なかかわりが濃厚だったからだ。 その時、60年代後半のアメリカの若者たちが求めていたものが実感として分かった。彼らは人間的なつながり、人間のぬくもりを求めていたのだ。50年代の豊さの中、郊外の衛生的な新興住宅街で、スポック博士の育児書によって衛生的に育てられた彼らは、ベトナム戦争という現実、つまり生きるか死ぬかという現実を前にして、人間的なぬくもりを求めていたのだ。彼らの試みの成否は別にして、ヘイト・アシュベリーでぼくが目撃した「狂ったような」光景はその現れだったのだ。 日本でも今、豊かになるにつれて、人と人の関わりが希薄になってきている。電車の中で化粧する現象はその象徴的な例だろう。豊かで衛生的ではあるが、人々の顔は、特に若者や子供の顔は、少しも幸せそうではない。 以上述べたことは通りすがりの旅人が見た皮相的な観察に過ぎないという謗りを免れないかもしれない。確かに、ベトナムは、貧困や若年層に広がるヘロイン中毒等、多くの問題を抱えている。中でも最大の問題はベトナム戦争が、自国民がふたつに分かれて戦った戦争だったということだ。戦後25年以上たった今でも、その傷跡は深い。 しかし、多くの問題を抱えながらも、ベトナムの人たちは今必死に生きている。そのエネルギーには目を見張るものがある。日本人が失ってしまった多くのものを彼らは持っている。彼らを見ていて思った。生きるために人を殺す人はいるかもしれないが、殺してみたいと思って殺す人はいないだろうと。 「もしあなたが今悲観的な気分に苛まれていら」、早めに身支度をして、航空券の予約をすることをお勧めします。 外国語の学習について 頭の中には、2月の後半に旅したベトナムの余韻がまだ充満している。かなりのインパクトを受けたことが分かる。とにかくその混沌としたエネルギーに圧倒された。生きる意欲と言ってもいい。 ベトナムへ行く前に、ニュージーランドのクライストチャーチという町に数日滞在した。この町は別名ガーデン・シティと呼ばれ、町中が公園のように美しい。整然とした街路、花の咲き乱れるフロントヤード、色とりどりの洒落た家々。十年ほど前にこの町を初めて訪れた時、こんなに美しい町がこの世にあるのかと思った。 振り返ってみれば、ぼくは物心ついた頃から常に西洋的な美、クライストチャーチ的な美を求めてきたような気がする。ところがベトナムの混沌というか無秩序というか、あらゆるものの混在を目の当たりにして、それまでの価値観が覆されてしまったかのようだ。 確かに、清潔、整然、均整、安全は、望ましいものに違いない。しかし、もしそれが徹底的に追求されるならば、その結果得られる世界は、かなり息苦しい無機質なものになってしまうように思われる。そこに人間のぬくもりを感じるのは難しい。人間はその世界の一部というよりも、そこから排除されている。そのような世界では、人は急速に生きる意欲を失ってしまうだろう。 勿論、ニュージーランドがそうだということではない。しかし、自殺する若者が少なくないと聞いたことがある。ひょっとしたらそのことは今まで述べてきたことと無縁ではないのかもしれない。 そしてそれは、現在の日本が直面している様々な問題―経済不況、学級崩壊、いじめや引きこもり、学習意欲の低下等―とも関係があるように思われる。 サイゴン河のほとりの大通りをシクロ(人力三輪車)に乗ってゆっくりと進んでいた時、自転車に乗った母親と五歳ぐらいの男の子が近づいてきて、しばらくシクロと並走しながら、絵葉書を売ろうとしたことがある。荷台に乗った男の子が身を乗り出して、絵葉書を差し出し、日本語で、「おとうさん、きれいよ、きれい」と叫んだのである。驚くと同時に、語学をやるにはこのくらいの積極性が必要だろうと思った。 また、かつて父親が南ベトナム政府軍の兵士だったというメコンデルタツアーのガイドの若者は、乏しい語彙を駆使して見事な英語を話した。メコン河をさかのぼる船の中で彼はぼくの横に来てすわり、身の上話をしてくれた後、「よりよい仕事につくためにもっと上手に英語を話せるようになりたい」と言った。彼にとって英語を学ぶということは生活と直結した切実な問題なのである。 60年代、ゼン・マクロバイオティックという食物療法で一世を風靡したジョージ・オオサワは、『永遠の少年』(日本CI協会)という本の中で、外国語の学習ということに触れ、「学校英語は実用にはならないし、金と時間はかかるし、そうかといって本格的でもないのだからやらない方がトクです。ではどんな勉強法がよいかといえば、自学自習です」と述べている。 明治26年に京都に生れたオオサワは、幼くして両親と死別し、生活のために、「寺の小僧、煙草屋の店員、牛乳配達、船乗り、貿易商になり」、世界各国を訪れ、多くの外国語を学んだ。英語、フランス語、スペイン語、ギリシャ語、ラテン語、ロシヤ語を学んだという彼は言う。「いずれも自学自習が原則です。英語以外はみな、最初1か月くらい、発音を習うために先生につく必 要がありますが、それ以上害こそあれ、益のないことを私は断言します」と。 語学の学習は自学自習、それにつきるとぼくも思う。しかし、オオサワも述べているように、外国語を勉強する時に不可欠なのは正しい発音の学習である。発音だけは、英語の学習も含めて先生について学んだほうがいい。 これも今の時代であれば、テープやCDの教材が豊富なので、独習も可能であろう。しかしぼくの経験では時間がかかりすぎる。いい発音の先生につけばオオサワの言うように20時間の授業で、いや10時間の授業で基本的に必要なことは身につけることができる。 よく学生に「英語を勉強するために先生はいらない」と言うことがある。日本の大学は語学をやるには最も不適切な場所である。多くの時間が無駄に使われている。オオサワは言っている。「自学自習、自問自答でなくては、ほんとうの学でも問でもありません」 ジョージ・オオサワの外国語学習方法は、『古代への情熱』(岩波文庫)に書かれているシュリーマンの学習方法に酷似している。そして外国語習得のための二人の並々ならぬ努力を支えたものは、何よりも、彼らが持っていた大きな夢であった。シュリーマンには、当時誰もがその実在を信じていなかったトロイの遺跡を発掘したいという夢があった。オオサワには、自らの病を治した食物療法を世界の人々に伝えたいという夢があった。 オオサワは、自学自習を継続することができるためには、「大きな、大きな夢、押さえきれない情熱」が必要であると言っている。それなしに、いかなる教育法も、教材も、どんな優れた教師も、効果はないであろう。 『金持ち父さん貧乏父さん』(筑摩書房)という本が売れている。百万部を超える勢いである。そのうちの一冊はぼくが購入したものだ。最初のうちは夢中になって読んでいたが、途中から何かおかしいと思い始めた。自ら働かなくても、お金がお金を生む方法を教えるこの本が売れるということ自体、今の日本の社会が抱えている問題を浮き彫りにしている。子供たちの学習意欲の欠如は大人社会の生きる意欲の欠如と直結している。そしてそれは先進国と言われる国々に多かれ少なかれ共通する問題であるように思われる。 文明の進歩と衰退は歴史の中で何度も繰り返されてきた。どこかにそれに歯止めをかける方法はないものだろうか。 影の復讐 胎児が生き長らえるためには、ある時点で子宮から出なければならない。胎児がそこにいつづけることは、母子両方にとって死を意味する。さらに、子供が一人前の大人になるためには、親から独立することが必要である。その意味で、お爺さんとお婆さんから離れるという桃太郎の決断は正しかった。 しかし、人が成長するためには、親から物理的に離れるばかりでは充分でない。それは外的な距離の取り方であるが、より重要なのは内的な距離の取り方である。「桃太郎」では、内的な距離の取り方が、3匹の動物と鬼とのかかわりを通して語られる。 鬼が島へ向かう途上、犬、猿、雉という3匹の動物と出会う。ユングは、集合的無意識には人間の進化の過程がすべて納められていると言う。そこにはあらゆる動物的なものが蓄えられている。 桃太郎は、これらの動物を追い払ったり、殺したりせずに、きび団子を与えて家来にする。つまり内なる動物的なものとの適正な距離を保ったのである。ユングは、無意識の中の動物的な衝動を無視したり抑圧したりすることは危険だと言う。それはシャドウ(影)として無意識の中に閉じ込められ、思いがけないところで噴出し、危害を加える。 最終的に、桃太郎は、鬼が島へ行く。「鬼」は桃太郎の中の自我を表している。自我は人間の意識の中心であって、人が人であるためには不可欠なものである。しかしそれは同時に自分と他人を区別する意識であり、対立を生じさせる原因でもある。 ユングは人間の意識と無意識を統合するものとして自己を想定する。全人化の過程とは、自己実現であり、それは、自己によって意識と無意識が調和され統合されるプロセスなのである。自我(鬼)を殺してしまっては元も子もない。鬼退治とはいえ、鬼は殺されていない。すでに家来になった3匹の動物の助けを借りて、桃太郎は鬼も家来にするのである。 鬼からもらった金銀財宝は、全人化の過程を経た桃太郎自身の人格と見ることができる。その宝を持って両親に会いに行く。鬼が島へ行く前の桃太郎は子供であった。鬼が島から戻ったとき、彼は、対等な人格として両親の前に立っていた。我が子に桃太郎のように成長して欲しいと望まない親がいるだろうか。 少々こじつけの感はあるが、「桃太郎」と全人化の過程を関係づけることができたとき、ぼくは興奮して何人もの人にこの話をした。するとある女の子が、「それは男の子の全人化の過程を説明するにはいいけれど、女の子についてはどうなの」と聞いた。 すぐに「かぐや姫」が頭に浮かんだ。この物語では、お爺さんが山へ竹を取りに行く。桃と竹。竹が何を象徴しているか言うまでもない。お爺さんが根元が輝いている竹を切ったとき、そこから出てきた赤ちゃんは、女の子であるはずだ。男性の心の中の理想の女性像、アニマなのだから。 かぐや姫と名づけられたその女の子は、やがて大きくなり、月に一度、満月を見て涙を流すようになる。これが何を象徴しているか想像することはそれほど難しくない。彼女は肉体的に大人になったのである。妊娠する準備ができたのだ。彼女は美しく成長し、時の帝を含む、有力者たちに求婚されたが、決して応じなかった。明確な意志を持った一人の女性に成長したのである。明らかにこの物語にも全人化の過程のモチーフを見て取ることができる。 ユングは人類共通の無意識としての集合的無意識とは別に、ある文化圏に属する人たちに特有の文化的無意識というものを想定した。日本人に共通する文化的無意識があるとするならば、現在の社会の混乱は、文化的無意識の中に追いやられた共通の「影」の復讐であると考えることもできる。 幼い子供を殺すという罪を犯した大人や親たちがその罪を償わなければいけないことは当然であるが、彼らもまた犠牲者であるということもできる。何かが根本的に変わらない限り、この混乱は続くだろう。 「レイルロード・オブ・ドリームズ」に乗って 木本よしのぶのアルバムを聞いてぼくが感じたことを一言で表すなら「懐かしさ」だ。しかし、それは単に昔を回顧する後ろ向きの懐かしさではない。その懐かしさには強い意志が伴い、過去と未来に開かれている。 そしてその過去と未来を結ぶものが今は廃線となってしまった「手宮線」である。彼は歌う、 手宮線にはどこを探しても プラットホームはないけれど ゆっくり目を閉じて待っていれば やってくるはずさ おんぼろの魔法の汽車が 彼は手宮線に汽車が走っていた頃の小樽の町を懐かしむだけではない。その時代の人々のつましい質素な、それでいて豊かな生活を、自らの生活の中で生きようとしている。それは大量生産、大量消費の生活の対極にあるもの。彼の歌の中に、太陽ではなく月が何度も登場するのも、そのことと無縁ではないだろう。 映画『フィールド・オブ・ドリームズ』の中で、自分で作った球場を手放さなければならない瀬戸際に追い込まれたレイ・キンセラに、テレンス・マンという作家が、「球場を手放す必要はない」というところがある。テレンスは、多くの人々が、お金を払ってでもレイの球場を見にくるだろうというのである。彼はさらに次のよう続ける、 彼らには、お金はあるが心の平安がない。彼らは観覧席に歩 ぼくが木本よしのぶのアルバムを聞いて思い出したのはテレンスのこのことばである。「今はなき手宮線に乗って」は「レイルロード・オブ・ドリームズ」ということもできる。 と歌い、さらに手紙を出すポストを探すのに半日かかってしまった「不便さ」を歌う。しかし彼はこの不便さを楽しんでいる。なぜなら、「こんなに遠くまできている」で歌っているように、 からである。極めつけは「夕日がゆっくりと沈む速さで」である。 10トントラックが轟音をたてて走り抜ける高速道路と、そこを歩く「ぼく」、そして頭上に輝く満月のイメージは鮮烈である。 音楽的には、友部正人や豊田勇造の影響が随所に感じられる。「ミスター・ソングアンドダンスマン」は友部に捧げられた歌であるし、彼らの歌のいくつかを髣髴させる歌詞やメロディもある。 このアルバムを聞くと、60年代に歌い始めたシンガーたちの影響が一世代若い人々に確実に受け継がれていることがわかる。雲散霧消してしまった日本の「カウンターカルチャー」が確実に小樽の町に根付いていることがわかる。 スプリングスティーンの『ザ・ライジング』を聞いて
ブルース・スプリングスティーンは、初期の作品から一貫して、アメリカの夢に裏切られ、アメリカの社会の底辺でうごめいている者たち−夜毎に疾走する若者、ベトナム帰還兵、犯罪者、不法入国者、失業者−のことを歌ってきた。 特に「ネブラスカ」では、10人の人を無差別に殺した殺人者に成り代わり、一人称で淡々と殺人の情景を語り、死刑宣告を受けたあとも、「俺たちがしたことに対して後悔なんかしていない」と歌う。 やつらはなぜ俺がこんなことをしたか知りたがった この世には理由なくただ卑劣な行為というものがあるんだよ という最後の2行を最初に聞いたとき、身の毛のよだつ思いがしたが、彼は、まるで善悪の判断を超越して、カメラマンが事件を撮影しているかのように語る。
というファースト・ヴァースとセカンド・ヴァースによって、手製のプラスティック爆弾を群集の中で爆発させようとしている男の心の中の思いを描いている。
また、次のふたつのヴァースでは、「アメリカ人」と同じような、恋人、あるいは妻との日常の生活を彷彿させる描写もある。 ただ、この歌では、「ネブラスカ」ほどには、非情に徹していないようにも思われる。最後の部分では、殉教することを思いとどまっているかのような描写が見られる。 またスプリングスティーンは、「報復攻撃」を肯定する立場でないことを、「ワールズ・アパート」「レッツ・ビー・フレンズ」によって示しているように思われる。なんとか、ふたつの異質な文化が分かり合えるように、この悲劇を好機ととらえたいという姿勢がうかがわれる。 この機会が次にいつくるかわからない 好機はすぐに終ってしまうものだから ・・・・・ 君とぼくが違っていることは知っている 歩き方も考え方も でも過去を歴史に追いやるときだ 少なくとも話し合ってみよう 2001年9月11日はアメリカでは、ボブ・ディランの新しいアルバム Love and Theft (愛と盗み)の発売日だった。いつもより遅れて届いた HWY61-L というメーリング・リストの投稿者の多くが、CDを買いにいく気になれないとか、手には入れたがどうしても聞くことができないと書いていた。その中でハワードという人が、数日前に聞いたという話を投稿していた。それは、ワールド・トレード・センターの悲劇の起こる3日前に、彼がエイミーという女性の両親から直接聞いた話である。 エイミー・ビールは、スタンフォード大学卒業後、アパルトヘイトが終わりつつある南アフリカへ行った。ネルソン・マンデラが彼女の英雄で、彼女は歴史的な平和と和解のプロセスに参加したいと強く思った。彼女は1年間ボランティアとして働いた。そしてアメリカへ帰る日の2日前、4人の黒人の若者に車から引きずり出され、殺されてしまった。4人は裁判にかけられた。彼らは、彼女について知っていたことは、彼女が白人だということだけだったと言った。裁判長は彼らに懲役18年の刑を言い渡した。 しばらくして、エイミーの両親のところへ南アフリカから1本のビデオテープが届いた。それは、殺人犯の1人の若者の母親が泣き崩れながら、エイミーの母親に許しを乞うているテープだった。このテープがエイミーの両親を変えた。彼らはエイミーの生と死が意味を持つことができるためには、娘の理不尽な死に対する怒りや悲しみを乗り越えなければいけないと感じた。そして、その事件を引き起こした社会的・文化的な背景を理解しなければならないと感じた。 4年後、4人の若者は、「真実と和解委員会」に恩赦を願い出た。エイミーの両親は、委員会に恩赦を認めるよう嘆願するために、南アフリカへ渡った。南アフリカへ行く前に、彼らは、会社も家も売り、さらにいろんな団体から寄付を募り、「エイミー・ビール財団」を設立した。 今、数百人の人たちがエイミー・ビール財団と財団が支援する会社によって雇われている。エイミーの両親が最初に雇ったのは、エイミーを殺した4人の若者だった。彼らは今、財団を担う中心的な役割を果たしている。 ハワードは次のように投稿を締めくくっている。 彼らの話を聞いたとき、どうしてそんなことが可能だろうかと思った。言葉では理解できる。しかし、自分の娘に同じことが起こったら、彼らのように行動することは無理だと思った。しかし、今日の悲劇を目撃した後、ぼくはエイミーの両親と同じ場所に立つことを学ばなければならないと感じた。しかも今すぐに。時間はあまり残されていない。ぼくは今、世界の指導者たちが、人類のために、エイミーの両親が立っている場所に行くことができる地図を作成することを切望する。手遅れになる前に スプリングスティンガ『ザ・ライジング』によって伝えようとしていることは、まさにこのエイミー・ビールの両親の思いではないだろうか。アルバムの最後の曲「マイ・シティ・オブ・ルーインズ」の最後のリフレーンが、そのことを示している。 今ぼくは手を合わせ
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