『千の風』ノート
 
                             
 
1.千の風 (4:45)

「あの鳥が来なくなったわね」と妻が言った。母が亡くなってから数日が経っていた。母が亡くなる一週間ほど前、朝飯を食べていると、見たことのないきれいな鳥がサンデッキの塀にとまった。そして、こちらに顔を向け、家の中をのぞきこむような仕草をした。その鳥はそれから毎朝ほぼ同じ時間にきて、同じ場所にとまり、同じ仕草をした。妻のいうとおりだった。いつの間にか来なくなっていた。火葬の日に庭の柿の木にとまっているのを見たのが最後だった。

人の魂は鳥になって天に向かうという。母は痴呆で入院していた。今思えば、あのとき母は最後の別れを告げるためにやってきたのだろうか。食卓にすわり、あの鳥を見たときの穏やかな気持ちを思い出す。2003年11月12日、母は92年の生涯を終えた。波乱に満ちた一生だったが、母の最期の寝顔は穏やかで美しかった。

「千の風」は明らかには母が書かせてくれた歌である。その数年前から作者不詳の A Thousand Winds というイギリスの詩をもとにことばを書き、曲をつけようとしたが、上手くいかなかった。何とか2番までは書けたが、あとが続かない。母の死後、3番の歌詞が自然と出てきた。1番は風、2番は光。3番は、鳥以外には考えられなかった。

母の死を経験する前、この歌はある不特定の死者が不特定の人に語りかける歌であった。今この歌は、母がぼくに語りかける歌になった。だからコンサートで、「いつもおまえのそばにいるよ」と歌うと、在りし日の母の面影が浮かび、母の声が聞こえてきて困る。歌えなくなってしまうのである。
 

2.紙ヒコーキ (4:51)

京都に住んでいたころ、母のことを、そして3歳から7歳まで住んでいた辰野町今村のことを思い出しながら書いた歌。その後、東京、カリフォルニア、そして京都と移り住んだが、どこにいても幼いころに生活した今村と茅葺の家を忘れることができなかった。いつも今村に戻りたいと思っていた。ぼくは今再びこの村にいる。
 

3.碌山 (10:04)

2000年夏、安曇野にある碌山美術館で歌うように依頼された。それ以前にもその美術館を訪ねたことはあったが、荻原碌山については何も知らなかった。それでコンサートの前、彼についての本を何冊か読んだ。明治のあの時代にこのような人がいたことに驚いた。短い一生ではあったが、彼の人生は完結しているように思えた。碌山の次のことばに感銘を受けた。
 
  蓄にして凋落せんも亦面白し。天の命なればこれまた
  せんすべなし。只人事の限りを尽くして待たんのみ。
  事業の如何にあらず、心事の高潔なり。涙の多量なり。
  以て満足すべきなり。
 
そのとき読んだ本は、荻原守衛著『彫刻真髄』(碌山美術館)、仁科淳著『碌山と信州の美術』(郷土出版社)、『愛と美に生きる』(碌山美術館)、相馬黒光著『黙移』(平凡社)。
 

4.山頭火 (3:08)

種田山頭火のことを初めて知ったのは1967年、紀野一義著『禅―現代に生きるもの』(NHKブックス)を読んだとき。当時ぼくはカリフォルニア州サンタバーバラに住んでいたが、母がその本を送ってくれたのである。そのときから山頭火はぼくの憧れの人になった。帰国後、山頭火の足跡を訪ねて野宿とヒッチハイクを重ねて全国を旅した時代があった。この歌は次の「こおろぎが歌うように」とともに京都レコードから出た最初のシングル盤に収められている。フォークシンガーとしてのぼくの原点ともいえる歌。

 
5.こおろぎが歌うように (6:16)

この歌に登場する「悲しい目をした青年」はいうまでもなく宮沢賢治である。1971年夏、山頭火が「ここまでを来し水飲んで去る」と詠んだ中尊寺を訪ねたあと、花巻の彼の生家を訪問した。弟の宮沢清六さんはお留守だったが、奥さんが仏壇のある部屋に通して下さった。線香を上げ、般若心経を唱えたさせていただいた。そして、奥さんと娘さんの前で、この歌と「みんなが宮沢賢治にならねばなりません」「私は風の声を聞いた」を歌わせていただいた。おふたりは「賢つぁんの歌だ」といいながら聞いて下さった。賢治の姪にあたる娘さんは、花巻農学校の黒板の前に立つふっくらとした頬をした賢治にそっくりだった。
 

6.カムサハムニダ、イ・スヒョン (7:36)

この歌は2002年にリリースした同名のミニ・アルバムに収められているが、今回新たに録音しなおした。釜山のご両親を訪問し、韓国語バージョンの入ったミニ・アルバムを差し上げ、お墓参りをさせていただいたのは、サッカーのワールドカップ直前の2002年5月のこと。その後、妹のスジンさんからお便りが届いた。
 
  兄が遠くへ旅立ったあとの衝撃と悲しみの中で、私たち家族
  がなんとか生きてこられたのは、多くの方々のあたたかい励
  ましと慰めのおかげです。韓国のみならず、日本でも、兄の
  ことを忘れないでいて下さる方々がたくさんいると知ること
  は、私たち家族にとって大きな励ましです。これからは、私
  たち家族の悲しみの中に兄を閉じこめておくのではなく、兄
  の行為と犠牲の精神が、人々に生きる意味と勇気を与えるこ
  とができるように、私たちも機会を見つけては努力していき
  たいと思っています。
 

7.父よ (4:25)

24歳のとき、つまり「山頭火」や「こおろぎが歌うように」とほぼ同じ頃書いた歌。長い間歌うことはなかったが、母が痴呆になって、ときにはぼくのことも分からなくなってしまってから、再び歌うようになった。ぼくがこの世にあるのは父と母のおかげだというあたりまえの事実に気づかされたのである。会ったこともない父の存在を今ぼくは以前にもまして強く感じている。4番の歌詞には山頭火の「うしろすがたのしぐれてゆくか」の影響が感じられる。
 

8.丁度よい (3:09)

この歌の原詩を知ったのは、今から数年前、飛騨丹生川村の禅僧、原田道一さんのサイトを訪問したときである。良寛の詩だとそこには書かれていた。しかし、良寛の詩に詳しい中村東茂一さんに尋ねたら、良寛の詩ではないという。ぼく自身いくつかの良寛の詩集にあたってみたが見つからなかった。誰の詩であれ、この詩には深い洞察と真理が含まれている。そのままでは歌えないので少しことばを整理して曲をつけた。


9.新しい光迎えよう (4:42)

2002年6月、札幌の千歳空港のホテルに泊まったときにできた歌。その晩ぼくは数日前に会った人のことを思いながら一睡もできなかった。その人の苦悩は、誰であっても担うことが難しいと思えるほどに大きいものであった。眠れないまま、まだ暗かったが、カーテンを開けて外を見た。地平線が明るくなり始めていた。その美しさに息を飲んだ。ぼくが住む辰野町は山に囲まれていて、地平線を、ましてそこに光が昇るのを、見ることはできない。ベッドの中でホテルのメモ用紙にことばを書いた。メロディも同時にできた。その晩、北海道今金町の阿知波一道さんが主催してくれたコンサートで歌った。
 
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1963年、サンタローザでボブ・ディランの「風に吹かれて」を聞いてから、もう40年以上がたってしまいました。その間いつもフォークシンガー、フォークソングライターでありたいと願ってきました。歌うこともさることながら、ぼくには歌を書くことが重要でした。歌を書くことによって、いくつもの苦しみや哀しみを乗り越えてきたように思います。ここに収められている9曲も、生きつづけるために書く必要のあった歌ばかりです。もしそのうちの一曲でも、みなさんの心に届くことができるならば、とても嬉しいです。
                     2004年11月3日 三浦 久

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母の死について、そして「千の風」という歌がいかにしてできたかについては、長野ジャーナルの「ぼくが出会った歌、ぼくが出会った人」の86回目のエッセイ「ゴンドラの唄」と87回目の「千の風」をご参照下さい。また「紙ヒコーキ」「山頭火」「こおろぎが歌うように」「カムサハムニダ、イ・スヒョン」などについても、読むことができます。http://www.nagano.net/journal/miura

友人のジム・グリーンと共訳した山頭火の俳句の英訳を電子図書館「青空文庫」で読むことができます。http://www.aozora.gr.jp/

60年代のぼくのサンタローザとサンタバーバラでの生活については拙著『追憶の60年代カリフォルニア』(平凡社新書)をご参照下さい。ぼくがいかにディランの「風に吹かれて」と出会ったかについても書かれています。