OREAD Diary
March 1〜31, 2011
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March 31, Thursday 2011

3月最後の日。2011年の4分の1終了。この3月は誰もが忘れることのできない月になった。1945年8月15日のように、あるいは、2001年9月11日のように、2011年3月11日はこれからずっと人々の脳裏から離れることはないだろう。

仏教に、慈悲とか大悲という言葉がある。どちらにも「悲」という字が含まれている。今、国内でも国外でも人々がそれぞれの立場や違いを越えて、協力し合おうとする気運が高まっている。あの大きな悲劇を前にしたら、主義や主張が違うからというだけで殺しあうことの愚かさを感じないではいられないだろう。

6時からオーリアッド。7時過ぎから、ある方の送別会の予約を受けていた。他にもお客さんがあり、昨日に続き、忙しい日に。



March 30, Wednesday 2011

今朝は11時ごろから録音再開。5時終了。比較的スムーズに進む。それというのも方針を転換して曲数をしぼったから。ライブヴァージョンを加えて全6曲。「祈りの歌」に関してはいくつか楽器を加える予定。弦楽四重奏を入れるというアイディアも浮上したが、経費上可能かどうか。そのことも含めて、『千の風』のアレンジ&ディレクトを担当してくださった関島岳郎さんにお願いすることに。

野間さんは6時過ぎのバスで東京へ、石崎さんはオーリアッドへ寄って、調子が悪かった mixing table をご自宅からもってきたものと交換してくれた。今までのものは8チャンネルのうち4チャンネルしか生きていなかった。感謝。

今夜のオーリアッドは、久々に忙しかった。少しずつ日常が戻りつつあるのかも。


March 29, Tuesday 2011

レコーディングは難しい。時間ばかり経ってしまう。今日の成果は「電線の上の一羽の鳥のように (new version)」と、「祈りの歌」のラフトラック。




March 28, Monday 2011

朝、7時半、階下へ降りていくと、家人が小声で「ちょっとちょっと」と手招き。見ると、ソフィーとフィービーが並んで脚立の上にすわって外を見ている。キジバトが巣を作り始めたらしい。この脚立は、薄型テレビが暮れにきてから、テレビの上に乗って外を見ることができなくなった彼らのために、しばらく前に購入したもの。

あまり熱心に見ているものだから、外へ出て彼らの顔つきを撮りたくなった。しかし、ぼくの気配に驚いてハトは飛び去ってしまったようだ。しばらくしてシジュウカラも近くまできた。キジバトとシジュウカラの両方が巣をつくり、卵を産んだら、猫もぼくも忙しくなる。





昼前に塩尻の家電店へプリンタのインクを買いにいく。家人から頼まれた単1の電池は2軒の店に寄ったがなかった。善知鳥峠の麓の空き地に「薪格安」という標識が立っているのは前から知っていたが、いつも無人で通り過ぎていた。今日は軽トラがとまっていたので寄ってみたが、誰もいない。電話番号が標識の下に書いてあった。電話するとすぐ来てくれた。松と雑木と楢の3種類があった。楢は一把330円とのこと。10把買うことに。

昼食後、ウオーキングに。いつもの不動尊堂へ。なかなか雰囲気のあるお堂である。おそらくここに昔、大きな水害があって、お堂が建てられたのではないだろうか。




明日から2日間、延ばし延ばしになっていた『祈りの歌』のレコーディングをすることに。震災があって、気分が重く、延期しようかと思ったが、ここで延期したらまた一年後になってしまう恐れがある。野間さんと二人で、できるだけシンプルなサウンドにしたいと思っている。できたら「祈りの歌」にはチェロを入れたいが、誰かいい人はいないだろうか。


March 27, Sunday 2011


午後家人と岡谷へ。家人が買い物をしている間にぼくは本屋さんを覗いてみる。最近本を買うにはアマゾンを利用することが多い。迅速便利であるが、宣伝文句につられて買って失望することもある。今朝の新聞に広告が出ていた2冊の本もアマゾンで注文しようと思っていたが、本屋さんで実物を拾い読みして買わないことに。買ったのは『村上昭夫詩集』(現代詩文庫)とヘッセの初期の短編集『少年の日の思い出』(草思社)の新訳。それに羽生善治著『大局観』。

『村上昭夫詩集』は嬉しかった。以前、2種類の『動物哀歌』をもっていた。今手元にあるのは村野四郎編で、ぼくが気に入った詩がいくつか抜けている。今日見つけた『村上昭夫詩集』にはすべて入っている。

『直観力』は原田さんとの対局に役立つかも。

夜、新曲「中谷勲」の手直し。そして練習。昨日ボランティアセンターで歌った「中谷勲」がよかったという電話を2人の方からいただいた。励みになる。

いつまでも寒い。真冬と変わらない寒さ。


March 26, Saturday 2011

午後1時半から、町のボランティアセンターで朗読の会「ひびき」の発表会があった。今回は辰野町出身の矢島麟太郎、中谷勲、有賀幸作、有賀喜左衛門、中川紀元、瀬戸團治各氏の書いた文章、あるいは彼らについて書かれた文章の朗読が行われた。

最後の30分、辰野のことを歌った歌を歌ってほしいと言われていた。そしてできたら、上記の人物の誰かについての歌を書いてほしいと。数日前から取り掛かったが難しい、時間がない。しかし、窮すれば通ず。11時半、会場のボランティアセンターへ機材を設定しに行き、オーリアッドへ戻り、発表会直前の1時25分に完成した。会場に着いたときには、すでに、矢島麟太郎さんの書いた「女の一生」というエッセイの朗読を池上さんが始めていた。麟太郎さんはわが家の遠い親戚にあたるようで、小さい頃祖母から「麟太郎さんはクリスチャンで、よく布団の上に正座して聖書を読んでいた」という話を聞いたことがある。

「幼い頃野原には」「旅立つお前に」「中谷勲」「薫子」「果樹園の道」「祈りの歌」を歌わせてもらう。「中谷勲」は書いたばかり。メロディもあやふやだったが、何とか歌うことができた。




写真上左が麟太郎さんの写真と朗読する池上さん。上中は、はまやみつを著『白樺教師 中谷勲』(郷土出版社)を朗読する岡本さん。その右はプロジェクターで映し出された中谷勲さんの写真。師範学校時代のものか。下左は中川紀元さんについて書かれた文章を読む鈴木さん。その右は、「中谷勲」を歌っているところ。最後は「果樹園の道」を粟津原さんと一緒に。

歌い終わったところで、年配の女性に紹介された。その方のおばあさんが中谷勲さんのお母さんとのこと。その方は「おばあちゃんにも聞かせてやりたかった」と涙ながらに喜んでくださった。それを聞いてぼくも胸があつくなった。嬉しかった。

                          ■

オープンマイク、6時開店後しばらくして、「春日&駒沢バンド」の春日淳也さんと駒沢和弘さんがやってきた。サウンドチェックと練習を兼ねて先ず歌ってもらう。ボーカルとギターが春日さん、リードギターが駒沢さん。なかなかいい感じだ。

その後少し休憩してもらって、何人かお客さんが入ってから、本番開始。トップバッター、春日&駒沢バンド。「こんがらかってブルー」「愛しのファイアーマン」、そして「彼女は行ってしまった」。作詞作曲、春日淳也。ディランやスプリングスティーンの影響が顕著なサウンドや歌詞。タイトルも? 数年前に聞いた春日さんの歌と比べるとサウンド、歌詞共に抜群の安定感。

丸山俊弘さん、「山スキーの歌」、先週の中島さんのヨーデルを受けて「アルプスのヨーデル歌い」、そして、愛音ちゃんがいるからと、お孫さんの何げない言葉から生まれた「雪のかくれんぼ」。藤森和弘さん、「今日は土曜日」。そしてもうすぐ2年生になる愛音ちゃんに「もうすぐ一年生」。そして、「オーリアッドにくるようになって初めて書いた歌」だという「住みなれたこの町で」。奥さんに捧げる歌。赤羽真理さん、「十字架の影に」、そして「遠き国へ」。後者は関東大震災 (1923年)に遭遇した宣教師が、その悲惨な状況の中で、十字架に希望の光を見い出し作った歌とのこと。そして「千両梨の実」。前半最後にぼくが、「幼い頃野原には」と「中谷勲」。ここで休憩。







後半トップを赤羽さんにお願いする。「ホーボーズ・ララバイ」、そして「許し」。原田和夫さん、ケイタイのカメラで撮影した某病院の壁に書かれていたという詩、千家元麿の「三人の親子」の朗読。そして、自らの戦後の貧しい生活について語る。その詩の最後の部分。

人通りの無い町で、それを見ていた人は誰もなかった。
場末の町は永遠の沈黙にしづんでいた。
神だけはきっとそれを御覧になったろう
あの静かに歩み去った三人は
神のおつかわしになった女と子供ではなかったろうか
気高い美しい心の母と二人のおとなしい天使ではなかったろうか。
それとも大晦日の夜も遅く、人々が寝しづまってから
人目を忍んで、買物に出た貧しい人の母と子だったろうか。


全文は次のURLから。http://www.za.ztv.ne.jp/ebdsaeba/sen/3ninno.htm

丸山さん、今週水曜日、避難生活を余儀なくされて岡谷市に滞在しているみなさんの前で歌うよう依頼されているとのことで、先週歌った「希望の春風」の improved version。副題「東北関東大震災に寄せて」。トヨさんの「風と陽射しと私」。そして「白雪先生」。春日&駒沢バンド、前半歌った歌の最初の2曲。次に春日さんの親しい友人で一緒にバンドをやっていた田中創さん。1曲目新曲「スージー」。スージー・ロトロに捧げた歌かと思ったら、そうではないとのこと。そうだったとしてもまったく違和感のない歌詞とサウンド。2曲目、名曲「東京」。

藤森さん、高音を振り絞るように「明日のために」と「君を忘れない」。胸を打つ。

最後の力を振り絞り
どうぞ歩いて涙の向こうまで
あきらめないで あなたの夢が
いつの日か大空 駆け巡る日が
来ることを皆 信じているさ
     
 「明日のために」より

最後に大月高志さん、震災後、大学で一緒に学んだ東北出身の友人の何人かと連絡がとれないと語り、さらに自らの震災に対する思いを語ったあと、「イエスタデイ」と「カノン」。

Yesterday all my troubles seemed so far away
Now it looks as though they are here to stay
Oh I believe in yesterday

この歌は恋人に去られた男の歌だが、最初の3行は、突然日常生活が奪われた人のつぶやき、あるいは嘆きと、とれないこともない。

オープンマイク終了後、しばし歓談。ぼくが「中谷勲」を歌っているときに入ってきた田中さんが話しかけてきた。彼が勤めている出版社から中谷勲さんの絵本が出ていると言う。その絵本と赤羽康男さんの『安曇野を歩く』(市民タイムス)を参照してこの歌を書いたと話す。前者の著者の児童文学者浜光雄さんに是非一度お会いしたいと思っていたが、先月亡くなられたとオンラインの新聞で知った。

新曲「中谷勲」の最後の2ヴァース。

彼が教壇に立ったのは
わずか1年と数ヶ月
でも100年近く時が経っても
彼の魂は生きつづけている

彼の生家は辰野町の
万五郎というところに今もある
中谷勲とつぶやくだけで
心の中にひとつの灯りがともる

中谷勲とつぶやくだけで
心の中にひとつの灯りがともる


March 25, Friday 2011

松本のJUSTへ中村ブンちゃんと箱守さんのコンサートを聞きにいってきた。話術といい、(おそらく無意識的な)演劇的演出といい、学ぶところが多かった。作品としては新曲「風に吹かれて」が素晴らしかった。名曲「ふりむくな哀」も。箱守さんの「あのねのね」風の歌も今回始めてきいた。




帰路、善知鳥峠を越えたら吹雪だった。家に戻ると完全な冬景色。

こんなYouTube を見つけた。ケニアの首都ナイロビのスラム街にある学校の子供たちが被災した日本の人たちのために歌っている。最初、内容がわからずとっつきにくかったが、しばらくすると日本語の字幕が出てきて、歌っている内容がわかった。先生の指導があったのだろうが、この子供たちの気持ちが嬉しい。この学校は日本人が援助してできた学校のようである。

コメント欄には、一人の子供のメッセージが翻訳されて載っていた。

一度にたくさんの災害を受け、心配しています。この災害をしずめ、そして、二度と起こらないよう、神様に祈ります。日本の心優しい方々がマゴソスクールを続けていくために、今までたくさんの支援をしてくださいました。みなさんが決してあきらめず、強い心を取り戻せるように神様に祈っています。そして、失ったたくさんの大切な物が再びあなた方の人生に戻ってきますように。( マーシー・アピヨ 14歳 8年生)

http://www.youtube.com/watch?v=0L5W5CYkbR4


March 24, Thursday 2011

寒い一日。真冬並みの寒さ。鬱々として終日。沢木興道老師の言葉に励まされる。

 なあに世の中に幸福もなければ不幸もない。夢のなかで
 別嬪に惚れられておるか、振られておるかというだけの
 違いである。覚めてみると何もない。ああウソだった。

 万象何が故にこうあるかということを尋ねれば、その何が
 故にということが自ずから 尽く、何でもない。一体めいめ
 いが何でこんなことをしておるのかといえば、何でもない。
 何だかしらんがこうしておる。

 人生は無生の曲であるから何らの様のあるものではない。
 じゃから甘いとか辛いとか、 嬉しいとか悲しいとかいうの
 ではない。ではどんな音色か・・・ララリヤ、リララ、何でも
 ない。

 無とは、なしという意味じゃない。人間が認識することでは
 ないという意味である。

 「生より死に至るまで只這れ是れ」(石頭希遷大師)・・・好
 きも嫌いも何もないのじゃ。 こうあるからこうある。憎愛は
 要らん。草は何とも思わずに生えておる。

 地獄の夢を見ても、極楽の夢を見ても、寝ておるのは寝て
 おる。夢は夢。そこの処に安 心したら何のことはない、ぶっ
 ちゃかる気遣いはないのじゃ。

 夢というのは、汚いものでもいろいろのものが出てくるが、
 朝、目が覚めてみたら何も ない。

 人生八十年、なあにやってしまったら同じことじゃ。

      http://antaiji.dogen-zen.de/jap/sawaki-jinsei.shtml

「人生八十年、なあにやってしまたら同じことじゃ」。昨日亡くなったエリザベス・テイラーは79歳だった。若い頃は実に美しかった。マリリン・モンローとエリザベス・テイラー。どちらかというと後者が好みだった。過ぎてしまえば、同じこと?

「草は何とも思わずに生えておる」―こんな風に生きられたらいいのだが。



March 23, Wednesday 2011


昨日アマゾンに2冊の本を注文した。そのうちの1冊が今朝届いた。ネルケ無方著『迷える者の禅修行』(新潮新書)。ネルケ無方(むほう)さんは1968年生まれのドイツ人。1990年22歳のとき、留学していた京都大学を中退し、兵庫県の日本海側の山奥にある曹洞宗の安泰寺に入る。安泰寺は1976年までは京都の鷹峰にあって、ぼくも何度か訪問したことがある。当時の住職は内山興正老師だった。内山老師の師匠は沢木興道老師。宿無し興道といわれた沢木老師の本が好きで何冊か読んだことがある。

今日届いた本の前半は家で読み、後半は今夜オーリアッドで読み終えた。驚いたことに、固有名詞は使われていなかったが、彼は一時期東福寺専門道場でも修行をしている。そういえば、先日遷化された老師からドイツ人の弟子がいて、一度通訳としてアメリカへ連れていったと聞いたことがある。ひょっとしたら、マイケルか誰か他の人から聞いたのかもしれない。

日本の仏教に対する批判的な文言も出てくる。確かにその通りと思うところもあるし、少し言い過ぎではないかと思うところもある。いずれにしろ、大いなる刺激を受けた。

著者のことについては安泰寺のホームページで詳しく知ることができる。
http://antaiji.dogen-zen.de/jap/abbotmuho.shtml

ネルケ無方さんの本について知ったのは『畑に家を建てるまで』というサイトの「読書日録(その2)」から。このサイトに書かれている文章も大いにインスパイアリングである。
http://www.ne.jp/asahi/kaze/kaze/index.htm


March 22, Tuesday 2011

よく雨が降る。家人が川向こうにある知人の家に届け物をする必要があるというので、午後雨の中、傘をさして出かける。ウオーキング。昨年末、蛇行した横川川に2本の橋がかかり、国道が真っ直ぐになったおかげで、川向こうへ行くのが楽になった。

午後遅く、今夜のシンディ・ローパーの最終コンサート(大阪)をニコニコ動画で見ることができるという案内が届いた。早速、ニコニコ動画に登録する。すごい時代になったものだ。いながらにして、コンサートの実況を無料で見ることができる。

シンディ・ローパーと聞いてすぐに思い出すのは Making of We Are the World で、首や耳に大量につけた装飾品がガチャガチャなって、ライオネル・リッチーか誰かに注意されて、はずしているところ。今夜はそのときとは違って、大震災の被害者への配慮か、黒い「喪服」のようないでたち。

彼女の音楽に疎いので、知っている曲は少なかったが、彼女の声量と歌唱力には圧倒された。それに TOKU という日本人離れした容貌のジャズミュージシャンのフリューゲルホーンがよかった。その音色は太田君のサックスを思わせた。

ニコニコ動画のライブ放映にも驚いたが、YouTube には昨夜の最後のアンコール曲 True Colors がアップされていた。ここで TOKUさんのフリューゲルホーンを聞くことができる。

http://www.youtube.com/watch?v=AuOdrIzcidk&feature=player_embedded#at=19

太田君が彼のブログで飯田のライブハウスで聞いたあるジャズバンドについて書いている。その中の印象深い言葉 ―

ちょっと変な言い方かも知れないけれど、とても愛のあるバンドだと思いました。この「愛がある」というのは、音楽にとって僕は一番重要なものなんじゃないかと思ってます。楽器が上手い、とか、リズムが完璧、とか、そういう要素は勿論大事ですが、サウンドにとって一番大事なのは、音に自然に現れてくる人間性みたいなものじゃないかと。

TOKUさんのサウンドにも太田君のサウンドにも「愛」があると感じた。それに震災の日に日本に到着し、レコード会社からコンサートを中止して帰国するように促されても、こんなときだからこそ予定通りコンサートを開き励ましたいと言ったというシンディにも。


March 21, Monday 2011

震源地からも、破壊された原子炉からも信州は遠く離れている。それでも毎日すわり心地の悪い椅子にすわっているような気分で生きている。家を流され全財産を失い、避難所生活を余儀なくされている人々にとっては、筆舌に尽くしがたい不安と恐怖の毎日だろう。

そんな中、80歳のおばあさんと16歳のお孫さんが9日ぶりに救出されたという嬉しいニュースがあった。救助にあたった警官が助かった高校生に「将来何になりたいか」と尋ねると「芸術家」と応えたという。極限状態における質問としては少々唐突に思えないこともないが、おそらく警官は少年の意識がしっかりしているかどうか確かめるために質問したのだろう。その答えもまたぼくを驚かせた。それはその場で思いついた答えではなく、前からずっとそう思っていたのだろう。この答えの中に大きな希望があるように思えた。

彼のお父さんがテレビ局のインタビューに応えて語った言葉も amazing だった。「口数は少ないが、大したやつだと思っていた。それを証明してくれた」。

京都に住んでいたときにお世話になった同時通訳グループの代表だった先輩から、URLが送られてきた。彼のところへはアメリカの知人から送られてきたとのことだが、制作したのは、大阪の小学校の先生。3.11後に世界中から届けられた日本と日本人への祈りの言葉が、We Are the World を背景に綴られている。冒頭の映像と言葉は、3月12日のこの日記で言及したインドの子供たちの祈り―JAPAN, WE ARE WITH YOU. JAPAN, WE SHARE YOUR GRIEF.

http://www.youtube.com/watch?v=IxUsgXCaVtc

呆然としていても何も始まらない。昨日から辰野町出身の夭折した小学校の先生、中谷勲について歌を書きはじめた。しかし今日一日遅々として進まず。それでも中谷勲という人物について今まで以上に知ることができた。是非とも歌にして、多くの人に知ってもらいたい人物。

朝、電話があった。26日のボランティアセンターでの朗読の会のイベントを楽しみにしているとのこと。そのときまでに、歌にできればいいのだが。


March 20, Sunday 2011


今朝、先日注文しておいたヤンマーの管理機(耕運機)が届いた。練習のため、少し耕してみた。前のものより馬力があり、使いやすい。昼過ぎ、面白くなってまた耕すことに。かなり耕したあと、変な音がし始めた。電話をしたらすぐ来てくれた。石か何か硬いものにぶつかり、ブレードが曲がってしまい、ボディに当たっているとのこと。ブレードを取り外し、直しにもっていってくれた。

納品と修理のために来てくれたヤンマーの若い社員は、背が高くがっちりした身体をしている。高校時代野球をしていたかと聞くと、バレーボールをしていたとのこと。それも第29回春の高校バレーボール大会(1998年)で全国優勝した岡谷工業高校の選手だった。次のビデオの冒頭でサーブをし、最後のほうで「努力の人○○」とアナウンサーが叫ぶ選手。http://www.youtube.com/watch?v=KiYcEFAB0nI

震災以後、何もする気になれず、ウツウツと過ごしている。しかし、何かしなければと『白樺教師 中谷勲』(郷土出版社)という絵本をアマゾンから取り寄せた。この物語をもとにして、3月26日の朗読グループひびきの発表会で歌う歌が書けたらいいのだが。


March 19, Saturday 2011

6時前オーリアッドへ。マイクをチェックしているところへ、買い物から帰ってきた家人が「きれいな満月が出ている」と教えてくれた。午後うす曇りだったので、今夜は見られないかもしれないと思っていた。カメラをもって伊那富橋へ。大きな黄色い満月が東山の上に。しかし、写真を撮るには飯田線の電線が邪魔。ガードをくぐって横川川の堤防へ。18年ぶりの大きな満月とか。次にこのサイズの満月を見ることができるのは、18年後の 2029年。そのときぼくは83歳。まだまだ先のことと思っていても、おそらくすぐにやってくるだろう。




写真を撮って戻ると、今井君がきていた。早速、サウンドチェック兼ねて歌ってもらうことに。彼を中学3年のときから知っている。礼儀正しい意欲的な少年だった。歌やギターにも並々ならぬ関心をもっていた。今夜、彼の歌声とギターを聞き、彼がミュージシャンとして大きく成長したことを知り嬉しかった。

サウンドチェックでは「歌うたいのバラッド」のカバーに、オリジナルで「ロックじゃ家族を養えない」、そして再びカバーで「言葉にできない」。本番では最初の2曲。丸山俊治さん、「吹けそよそよ吹け、春風よ」という言葉で始まる「春風」。曲はフォスター。次に、今日オーリアッドへ来る前に震災被害を受けた方々のために書いたという「希望の春風」。そして「満州の丘」。藤森和弘さん、「愛音」「生きて」「最後のチャンス」。それぞれの歌に、被災者の方々への思いが滲む。

島岡博さん、今日はカバーでいきますと、次の3曲。「コスモス」「静かな音楽だった」、そして「もっと歌います」。松下元英さん、「雲遊天下」「月の祭り」、そしてオリジナルで「追憶」。続いて、中島雑貨店の中島裕志さんと筒井倖人さん。昨年のスローガンは「地域に愛される中島雑貨店」で、今年のスローガンは「環境に優しい中島雑貨店」とか。「シーベック・シーモア」「蘇州夜曲」などインストラメンタル3曲。オートーハープの音色が心地よい。ここで休憩。









後半トップは、原田和恵さん。今日は喉の調子が悪いとのことで「G線上のアリア」を一曲。soothing music。続いて原田和夫さんに、小学校1年生のときの担任の先生だった相馬先生から届いた手紙を朗読してもらう。それは「白雪先生」のCDに対して届いた礼状。それを受けてその歌の作者、丸山さんが歌う。歌が人と人を繋ぐ。丸山さん、「希望の春風」をもう一度。―「今私にできることは/あなたと共に涙を流すことだけ」。

筒井さん、「月の舟」。「ぼくは歌うたいではないので」といいながら歌い始めたが、とんでもなく上手い。島岡さん、スージー・ロトロの話をしたあと「Don't Think Twice, It's Alright」。松下さん、3月末に32年ぶりに歌を再開してからちょうど2年になると話したあと「我が心のヤスガーズ・ファーム」。恭蔵さんの歌。中島さん、見事なヨーデルソング「山羊と一緒に」。

赤羽孝昌さん、安曇野デートの顛末とふるさと福島県喜多方市の話。人生、悲喜こもごも。喜多方は、道路の亀裂や家屋の破損など少しあったようだが、津波の被害も原発からの退避も免れたらしい。死者負傷者もなかったとのこと。

最後に藤森さん、飯田からの4人のサポートで「上を向いて歩こう」。そして最後にソロで「あなたが僕を捜す時」。想像を絶する規模の大災害のあと、「生きているそれだけで/人はみな幸せさ」という言葉は胸を打つ。歌い始める前、藤森さんがレイバンのサングラスをかけると、飯田組の中から「亀仙人!」というヤジ。一同大笑い。

震災後2度目のオープンマイク。言葉にしてもしなくても、亡くなった方々、家を失くした方々、愛する人たちを失った方々に対する想いは誰の心の中にもある。今、私たちにできること―共に涙を流すこと、そして歌い続けること。


March 18, Friday 2011

今月の満月は明後日の午前3時10分。ということは、19日の夜も20日の夜も大きなお月さんを見ることができる。

CNNの記事によると、月の楕円軌道ゆえに、同じ満月でも地球に近いときと遠いときがあるとのこと。明後日の満月(3月20日午前3時10分)は1993年以来、もっとも大きな満月とのこと。これを見逃すと、次にこの大きさの満月を見ることができるのは2029年。晴れてくれたらいいが。

午後、家人と村の北にある部落へ、ウオーキングを兼ねてセツブンソウを見に行く。いくつもの小さな可憐な花が咲いていた。この地域の人たちは、この花を大事に育て、世話をしている。山すそに沿って群生地がある。

帰路、小さな小屋が目に入ってきた。家人の友人の家の庭である。奥さんは留守だったが、ご主人がいて、小屋の中を見せてもらった。北欧の小屋で、10年近く前にキットで購入し、自分で組み立てたとのこと。わが家の庭にもひとつ欲しくなったが、自分で組み立てるとなると、その「ずく」があるかどうか。




夜、オーリアッド。少し歌の練習をし、オンラインで原発事故のニュースを見る。親を亡くした子供たち、子供たちを探す親たち。子供たちを助けに行き、亡くなってしまった先生もいた。この一週間よく泣いたものだ。


March 17, Thursday 2011

ヘリコプターや消防車からの原子炉への放水は、素人目には文字通り、焼け石に水に見える。政府は半径30キロといっているが、アメリカ、イギリス、ドイツなどは半径80キロメートル圏内にいる自国民に避難勧告を出している。不安である。

「月丘にすまふ狐」という方から「木の葉」と称するものが届けられた。狐の木の葉はお金ということになっているが、これは大きな鯛であった。今夜の夕食に、白ワイン入りイタリア風蒸し煮にしていただいた。美味しかった。感謝。先日のtranslation quiz のお礼とか。そんな必要はまったくなかったのに。

オーリアッド。辰野美術館の赤羽さんが、1月22日の美術館での折り鶴イベント&コンサートのことで、お見えになった。4月23日(土)に、再度同じ場所でイベントを開催するとのこと。篠笛の演奏に加えて東京から、ダンス/パフォーマンスの人もくるらしい。造形作家の木村先生もお見えになるようである。また、多くの方々が願いや祈りを書いて折ってくれた折り鶴を、ゴミとして処分するのはしのびないので、それを燃料に素焼きの折り鶴を焼くことを考えているとか。素晴らしいアイディアである。

今夜も一時間早くオーリアッドを閉める。町の中は人影も車もほとんど見かけない。無理もない、出かける気分にはなれないだろう。玄関前の温度計は-5℃。暖房のない避難所生活の人々の苦労がしのばれる。


March 16, Wednesday 2011

今、日本中の、いや世界中の関心が、大地震と大津波と、それに原発事故に注がれている。

Facebook にデレクが Chinese Netizens Admire Japan's Post-Earthquake Behavior (中国のネット市民、地震後の日本人の行動を賞賛)という記事を載せていた。何かにつけて日本に対して批判的な中国人が、驚いたことに、「極限状態にあっても法と秩序を守り、互いに手を差し伸べる」日本人に感嘆し、賞賛している。最初の何枚か写真があり、そのあとにくるコメント欄にたくさんの人が書き込んでいる。

更に、Facebook にイスラエルのヨナット・フリーリングが津波に襲われたにもかかわらず生き延びた2匹の犬の動画をアップしていた。

午後、月に一度の定期健診のため病院へ。昨日から血圧が高い。今朝も家人とウオーキングにでかけたが、あまり効果がなかったようだ。病院ではかっても、昨日とあまり変わらず。問題は、食べすぎと運動不足。それに最近のどうしても見てしまう悲惨な映像も、hypertension と関係あるかもしれない。

夜、土曜日以来のオーリアッド。歌の練習。そして、今夜1時間早目に閉店。


March 15, Tuesday 2011

今朝は少々血圧が高めだった。ウオーキングに行くことに。徳本水のカーブを通って、山の腰道という小道に入り、城山公園へ。山の腰道の日陰の部分にまだ少し雪が残っていた。守屋山が遠くにかすんで見えた。帰りに、昔祖母に連れられてよくいった樋田(といだ)の不動尊堂へ回って、再び徳本水のカーブを通って旧道へ入り、家に戻る。

春を探したが、それらしきものはなかった。徳本水のカーブにもまだ雪が少し残っている。ただ、横川川の水がぬるみはじめているのがわかる。家にもどったら春があった。イチイの木の下の小さな祠の前に福寿草。




Facebook に MAN UP FOR JAPAN という呼びかけがあって何かなと思ったら、MAN は人間あるいは男ではなく、万だった。つまり日本のために一万円を寄付しようという呼びかけだった。呼びかけている人たちは日本の中学や高校で英語を教えているネイティブスピーカーの先生たち。

日本は私たちに多くのものを与えてくれました。住む家、新しい多くの友だち、そして数え切れないほどの素晴らしい機会を与えてくれました。今、日本は私たちの助けを必要としています。だから、「MAN UP FOR JAPAN」に参加してください。まもなく給料日の金曜日がやってきます。金曜日になったら、是非一万円を日本赤十字かAJET救済基金に寄付してください。・・・もし私たちみんなが金曜日に一万円を寄付したら、被災者救済のために、かなりの額を集めることができます。一万円は多すぎると思われるかもしれませんが、給料日直後だったらなんとか捻出できるはずです。それに、日本が私たちのためにしてくれたことに比べたらほんとうにわずかな額です・・・・・。

ちょっと感動した。そのFACEBOOKに登録している人の数だけで一万人以上いる。もし全員参加したら、それはかなりの額になる。すでに2000人以上がサインアップしている。ダニエルもエマも、デレクも。

昨日の日記に「枝野さんの話はわかりやすい。要点が明確に伝わってくる。通訳しやすい日本語である」と書いたら、今日、「枝野さんは高校時代に三回続けて弁論大会で一位になったそうです」と教えてくれた方がいた。Wikipedia で検索したら、「宇都宮高等学校時代は校内の弁論大会で3年連続優勝した」と書かれていた。なるほど。


March 14, Monday 2011

偉そうなことは言えないが、東京電力と原子力安全保安院の広報担当者のプリゼンテーションは、少なくともぼくが聞いた人は、落第。先ず発声(enunciation)に問題がある。専門的な話を早口でぼそぼそ話していて何を言っているのか聞きとれない。次に、ひとつのパラグラフにはひとつのトピックという原則を守らないものだから、話があちこちとび、何を言いたいのかわからない。まず結論(トピック)を先に言ってから、それをサポートする説明をすべき。

そこへいくと枝野さんの話はわかりやすい。要点が明確に伝わってくる。通訳しやすい日本語である。首相の口癖の「ある意味で」のような余分な言葉も入らない。

しかし、彼らをあまり厳しく採点すべきでないかも。大惨事のあと、しかも、テレビで全国に向かって、今まで例のなかったことについて話をするのである。少々しどろもどろになるのもむべなるかな。

世界中の人々が日本に対して祈りを捧げ、援助の手を差し伸べてくれている。そして日本の人たちもみな何とか自分のできる範囲で被災者を助けたいと思っている。本当に気の遠くなりそうな、どこから手をつけていいかわからないほどの大惨事ではあるが、そこにかすかな光がある。

午後、久々に買い物に出かける。途中ガソリンを入れたら、10リットルだけにしてくださいとのこと。生まれて初めての経験。被災地に向けてガソリンを確保しなければいけないからだろうと理解した。


March 13, Sunday 2011

またあの鳥がやってきた。昨年4月の初旬、この巣箱に入り、しばらくして産卵し、5月の終わりに4羽の雛が孵ったシジュウカラ。2月の終わりから飛んできていたが、巣の中に入るのを見たのは今日が初めて。まだここを産卵場所にしていいか決めかねている様子。昨年より一ヶ月早い。



昨日の日記に「理不尽な自然の脅威を前に、人は互いに対して優しくなれるものだと感じた」と書いた。世界の国々からレスキュー隊が派遣され、インターネットでは世界中から被災された方々へ、そして日本国民へ向けて励ましの言葉が寄せられている。そして、ふと夢想した。この悲劇が契機となって、個人のレベルから国と国のレベルに至るまで、互いに「ツマラナイカラヤメロトイヒ」という気持ちになって、和解が成立したらいいのにと。そして昔よく歌った歌を思い出した。

  昨夜私は、今まで見た夢の中で
  もっとも不思議な夢を見た
  世界中の国々が戦争を止めることに
  同意する夢だった
  大きな部屋があって
  そこにはたくさんの人々がいた
  彼らが署名している書類には
  もう二度と戦争はしないと書かれていた

  書類がすべて署名され
  百万のコピーが作られたとき
  彼らは手をつなぎ、頭を下げ
  感謝の祈りを捧げた
  通りに集まっていた人々は
  輪になって踊っていた
  そして銃や刀や軍服は
  地面に投げ捨てられた

  昨夜私は、今まで見た夢の中で
  もっとも不思議な夢を見た
  世界中の国々が戦争を止めることに
  同意する夢だった
(miura

  Last night I had the strangest dream
  I ever dreamed before
  I dreamed the world had all agreed
  To put an end to war
  I dreamed I saw a mighty room
  The room was filled with men
  And the paper they were signing said
  They'd never fight again


  
And when the papers all were signed
  And a million copies made
  They all joined hands and bowed their heads
  And grateful prayers were prayed
  And the people in the streets below
  Were dancing round and round
  And guns and swords and uniforms
  Were scattered on the ground

  Last night I had the strangest dream
  I ever dreamed before
  I dreamed the world had all agreed
  To put an end to war


サイモンとガーファンクルもこの歌を歌っている。

http://www.youtube.com/watch?v=sJ_8NIVZqt0&feature=fvwrel

確かにこれはもっとも不思議な夢。ありえない夢である。昔もこの歌を歌いながら、「こんなことはありえないよ」と思っていた。ありえないけれど、あったらいいなと願わずにはいられない夢。


March 12, Saturday 2011


オーリアッドを再開してから今年の6月で8年になる。その間、今日ほどお店に向かう足取りが重く感じられたことはなかった。あまりの衝撃の大きさに、言葉の無力さを感じていた。歌いにきてくれることになっている方々も二の足を踏んでいるのではないかと思った。

臨時休業することも考えたが、このようなときだからこそ開けるべきだとも考えた。実際、歌いにきてくださった方々もみな、今日歌うということにそれぞれの思いを抱いていたことが、言葉の端々に感じられた。また、理不尽な自然の脅威を前に、人は互いに対して優しくなれるものだと感じた。

些細な言葉尻をとらえて対立していた与野党も救済支援に一致協力して取り組むことを宣言し、50を超す国々からも救援隊が派遣されるようである。世界中の人々がイデオロギーや主義主張を超えて救援の手を差し伸べようとしている。

次の一連の写真は悲惨な被害の状況を写した写真だが、中に、インドの子供たちが、ロウソクを灯しながら、「日本のみなさん、私たちの思いはみなさんと共にあります」「日本の皆さん、私たちはみなさんと哀しみを分かち合っています」というプラカードを前にした写真 (No. 40) があって、心打たれた。
http://dl.dropbox.com/u/389138/pics,vid/1103-Massive%20earthquake%20hits%20Japan%20%28boston,com%29.pdf

トップバッターは藤森和弘さん、「お店をやってないかもしれない」と思いながらきたとのこと。でも「今日は土曜日」、飛び入りライブの日。何を歌うか考えたとのこと。その歌と、「人生に勇気」、そして「傷つき打ちのめされても/はい上がる力が欲しい」で始まる「Hold Your Last Chance」

原田和恵さん。ヘンデルの「ラルゴ」から。いつも弾いてくれる曲なのに、今日は特に心に沁みた。そして「主がわたしの手を」「You Raise Me Up」

打ちひしがれ、魂が疲れ果てるとき
困難に直面し心が重く沈むとき
私はじっと黙して待つ
あなたがやって来て、しばらく私といてくれるまで

あなたが起こしてくれるから、山の上に立つことができる
あなたが起こしてくれるから、嵐の海を歩くことができる
強くなれる、あなたの肩が支えてくれる限り
あなたが起こしてくれるから、今まで以上に強くなれる 
(miura)

続いて、大惨事を前にして自らの歌の無力さを感じながら、ぼくが「花語らず」と「祈りの歌」。そして、赤羽真理さんも今日は何を歌っていいか分からないといい、「千両梨の実」。そしてリクエストに応えて「人生の海の嵐に」。ここで休憩。







後半トップ、藤森さん。意表をついて「今日までそして明日から」。客席に吉田拓郎ファンのお客さん。一緒に口ずさむ声。そして「涙そうそう」と「若者たち」。最後の曲は原田さんのピアノのサポート。ここから赤羽さんも加わって、歌声喫茶風に。「あの素晴らしい愛をもう一度」「22才の別れ」。

原田さん、「糸」「そばにいるよ」、そして最後に「寒い中で眠れないでいる方々のために・・・」という祈りのことばと共に、シューマンの「トロイメライ」。この曲を聞きながら、言葉のない音楽のもつ力を感じた。レクイエム、鎮魂曲。赤羽さん、先ほどの歌声喫茶風セッションの続きで、「四季の歌」「夏休み」「結婚しようよ」。拓郎ファンのご家族も一緒に。最後に、「アメイジング・グレイス」を赤羽、三浦、原田の3人で。写真なし。最後に、リクエストに応えて「千の風」。その後しばし歓談。

今夜のオープンマイクは、歌い手も聞き手も、今回の地震で犠牲になられた方々へのそれぞれの思いをこめたスペシャルオープンマイクになった。少なくとも、言葉では語ることのできない心の中の思いを、共有することができた気がする。家に帰るときは、少し足取りが軽くなったような。


March 11, Friday 2011

午後、「歳をとって歯が抜け」を手直ししようと、ギターを弾いていると、なんとなく身体が揺れる気がする。身体を揺すって弾いているので椅子が動くのだろうと、そのまま弾き続ける。でも今度は部屋が揺れているような気がする。弾くのをやめると、部屋が静かにゆらゆらと揺れている。地震だ。急いで階下に降りる。家人も最初は、血圧が低くてめまいがするのかなと思ったが、食卓の上のランプが揺れていたので地震だと気づいたとのこと。テレビをつける。地震情報がすでに画面の上に。

確かに今回の地震は、いつも経験する地震の揺れとは違っていた。

最初に揺れを感じたとき、こんなに大きな地震になるとは思わなかった。津波の猛威が地震の大きさを物語っている。そして夜になって各地で火災が発生した。マグニチュード 8.8 の地震だけでも大きな被害があったに違いないが、それに加えて、10メートル以上の津波が襲い、さらに手の施しようのない大火災が発生したのである。どのような言葉も、猛威を振るう大きな自然を前では無力である。

今朝届いた次の名言は、今日の地震を思うと、確かにその通りと思わされる。アインシュタインの言葉である。

  We still do not know one thousandth of one percent of what
  nature has revealed to us
.

  
  今までに自然が我々に見せてくれたところの1パーセントの千分の一も、
  まだ我々は分かっていない。


March 10, Thursday 2011

今日は仕事部屋の整理。床、コンピュータラック、机の上に散乱している書類や印刷用紙、そして本を、いるものといらないものに分け、いらないものはゴミ袋へ。

机の上の本と書類の山に埋まっていたスージー・ロトロの A FREEWHEELIN' TIME -- A Memoir of Greenwich Village in the Sixties が出てきた。昨年だったか一昨年だったか、購入したときに読んだが、先日彼女の訃報を聞いたばかりなので、もう一度下線を引いたところを中心にさっと読み直した。

渡航禁止命令にもかかわらず、総勢5人、FBIに追われながら、ニューヨーク、ロンドン、パリ、プラハを経由してキューバへ行く話は、実話とは思えないほどにスリリング。そのときスージーは若干20歳か21歳。こんなエピソードも語られる。キューバは野球が盛んで、あるときキューバ・チームと外国人チームの試合を見ていた。誰かからもらった大きな麦藁帽子をかぶって、うとうととしていて、気がつくとると、彼女の周りに人垣ができていた。横を見ると、フィデル・カストロが微笑みながらすわっていた。選手たちまで試合を中断して彼女とカストロを取り囲んでいたらしい。

最後のほうに60年代とはどんな時代だったかという記述があり、大いに共感する。

Sex, drugs, and rock and roll became the sound bite for the 1960s. It characterized the times--decade of this, decade of that--but it was not really about anything that superficial. Those years were about a way of thinking, seeing, and believeing--a way to live. (p. 363)
「セックス、ドラッグ、そしてロックンロール」が60年代を特徴付ける言葉として定着した。あの時代を描写するために使われてきた。でも実際、60年代はその3語で描写できるほどに軽薄な時代ではなかった。いかに考え、理解し、信じるか、つまりいかに生きるか、ということと真剣に向き合った時代であった。


The sixties were an era that spoke a language of inquiry and curiosity and rebelliousness against the stifling and repressive political and social culture of the decade that preceded it. The new generation causing all the fuss was not driven by the market: we had something to say, not something to sell.(p. 367)
60年代は、その前の10年の抑圧的で息苦しい政治・社会的文化に対し、好奇心旺盛な数々の疑問を投げかけ反抗した時代であった。社会を揺るがす行動に出た若者たちを動かしたのは市場原理ではなかった。私たちが行動したのは何かを売るためではなく、何かを伝えるためであった。


夜、オーリアッド。Good News の木下さんより電話。3月26日(土)に予定していた G3s のコンサートを延期したいとのこと。パブリシティの段取りをもう一度考えたいとのこと。遅くに「朗読グループひびき」の赤羽さん。同じ日の午後に行われる「第12回 お話を聴くひととき」のチラシをもってきてくれた。

 
 「第12回お話を聴くひととき」
 
  今回のテーマは 礎(いしずえ)。 中川紀元、瀬戸団治、
  矢島麟太郎、中谷勲、有賀喜左衛門、有賀幸作など辰野
  の礎を築いた人たちについて書かれた文章をの朗読。
  後半、三浦久「辰野を歌う」ミニコンサート

  日時:3月26日(土) 午後1時開場、1時半開演
  会場:辰野町ボランティアセンター
  入場料:300円(辰野の銘菓とお茶がつきます)
  主催:朗読の会ひびき

  問合せ:辰野町ボランティアセンター 0266-41-5558


March 9, Wednesday 2011

「拾得」のテリーのブログに感動的なリンクが貼ってあった。

それは、次のような字幕から始まる3分11秒のドラマ。使われている言語は台湾系中国語で、字幕は英語。ざっと訳してみると:

     人は何のために生きている?

     先に旅立った人を偲ぶため?
     病気を治すため?
     長生きするため?
     やがてこの世から去るため?


平均年齢 81歳の5人の男たちはみな持病を持っていた。1人は難聴、1人は癌、3人は心臓病。そして全員が変形性関節炎。そんな5人が突然一大決心をする。続きは見てのお楽しみ。
http://www.youtube.com/watch?v=vksdBSVAM6g&feature=youtu.be

断・捨・離、2日目。今日は2回の和室の整理。整理したものは、昨夜のものと同じ。教科書のサンプルなどが毎年大量に送られてくる。捨てるのももったいないと取っておくのだが、それがたまるとかなりの量になる。思い切って資源ごみにだすことに。

夜、オーリアッド。村上和雄さんの講演のCDを聞いているところへ赤羽(真)さん。しばらく村上さんの講演を一緒に聞く。しばらくして、原田さん。原田さんとはいつものように一局。ほとんど勝っていたのに、詰めが甘く、最後の最後、「桂馬」で万事休す。上記の YouTube は是非原田さんに見てもらいたい。

11時閉店後、外に出ると小雪が舞っている。積もらなければいいが。


March 8, Tuesday 2011

ようやく少し時間的余裕ができたので、家の中の整理をすることに。今日はとりあえず、2階の仕事部屋の外に積み上がられた本、CD、写真、テープ、授業の古い資料などが入っているダンボールを整理することに。

驚いたことに、1975年12月15日、新都ホテルでレナード・コーエンにインタビューしたときのテープが出てきた。その一部を訳したものが、翌年1月のオリコン関西版に掲載された。テープの他の部分でどんなことが語られているか興味のあるところ。

明日からも少しずつ断・捨・離を実行しなければ。これで終わってしまったら、まさに焼け石に水。

夜、歌の練習。いくつかのvoice training のYouTube を見ながら。とてもいいものもあるし、高額な商品を売ろうとするものもある。

次のYouTube では、横隔膜のある辺りに当てて、胸が振動するのを感じながら声を出すという方法が紹介される。こうすると喉の周りの筋肉が緊張しないので楽に声が出る。

http://www.youtube.com/watch?v=nIO0RfvJFss&feature=related


March 7, Monday 2011

朝、目が覚めて、眼鏡をかけないまま外を見たら、あたり一面ぼんやり白く浮かび上がっている。まさか雪が降るとは思っていなかったので、一瞬何が起こったのかわからなかった。雪だとわかるまでに少し時間がかかった。予定の時間には遅れたが、旧道へ雪かきに。重い春の雪。家の周りは20センチから、多いところでは30センチはある。しかし、気温は比較的高く、昼ごろにはかなり溶けた。



午後、役場に用のあった家人を送りながら、オーリアッドの雪かきへ。ありがたいことに、駐車場も歩道もほとんど溶けていた。

ぼくの歌のファイルを点検したら、タウンズ・ヴァンザントの If I Needed You の一番を訳し、そのあとは自由にぼくが言葉を書き加えた歌が出てきた。

  もし君がぼくを必要としたら
  ぼくは君に会いに行くよ
  ぼくは行くよ、海を泳いででも
  君の孤独を癒すため

  今、君がどこにいようとも
  ぼくは君に会いに行くよ
  ぼくは行くよ、山を越えてでも
  君の孤独を癒すため

  人けのない海へ続く道
  月の光が波に揺れ
  誰かぼくの名前を呼ぶ
  はるか遠い記憶のよう

  ぼくが君を必要としたとき
  君はぼくの前に立ち
  闇の中にこそ光はあると
  君はぼくに教えてくれた

  もし君がぼくを必要としたら
  ぼくは君に会いに行くよ
  ぼくは行くよ、海を泳いででも
  君の孤独を癒すため

夜、この歌を練習。もうひとつ、これも最近歌っていない「君は素晴らしい、君は美しい」も。但し、この歌は、もう少し言葉を変える必要がある。

次のYouTube の映像には感動した。Human Planet (人間の惑星)。
http://www.youtube.com/watch_popup?v=2HiUMlOz4UQ&vq=large


March 6, Sunday 2011

今朝は疲れていたとみえて、家人に起こされるまでぐっすり。8時45分。彼女は村の人の車に便乗させてもらって伊那のJAフラワーセンターへ。大正琴の発表会とのこと。

午後、そのフラワーセンターへ迎えに行き、隣町のヤンマー農機具の販売所へ。今までの耕運機よりも大きな耕運機を購入することに。今年は畑の面積が増えて、今までの耕運機では対応できそうもない。耕運、うね立て、うね盛りができるタイプを購入することに。馬力も6馬力あり、車輪も大きい。今までの耕運機は、推進力が弱く、前進するためには、力いっぱい押さなければならなかった。1うね掘るとものすごく疲れた。 

前原外相が辞任を決めたようだ。次の京都新聞の記事に、前原さんが昨日、福島老師の密葬に参列したときに語った言葉が載っている。「自死についてお話になったことが印象に残っている。温かく包み込むような優しい方でした」。
http://www.kyoto-np.co.jp/politics/article/20110305000094

時が経つにつれてますます寂しさが募る。


March 5, Saturday 2011

JR奈良線で東福寺へ。午前11時、東福寺方丈で福島慶道老師の密葬が行われた。僧堂へは何度もお邪魔したが、方丈へきたのは久しぶり。昔、福島老師に案内されたとき、久しく使われず、物置になっている大禅堂を改築したいと言われた。その大禅堂も立派に改築されている。しかし、この禅堂で日米の弟子たちを一同に集めて大坐禅会を開きたいという夢が実現する前にお亡くなりになってしまった。





一般会葬者は方丈の前の焼香台で順に焼香すませ、12時の出棺まで外の休憩所で待つことに。焼香する順番を待ちながら方丈の中を見ると、お坊さんたちの間に一人だけ礼服の人がいた。よく見ると京都出身の代議士、現外相の前原さんだ。献金問題が取りざたされている最中。胸中如何ばかりだったろうか。

12時、出棺。霊柩車の前で挨拶をされた僧の言葉がすべてを物語っていた。「老師は常にどなたにも親切で、笑顔を絶やされませんでした」。


                         ■

オープンマイク。赤羽龍司さんの「五歳若返る方法」のデモンストレーションと原田和夫さんの相馬先生から届いた礼状の朗読が今夜のハイライトだった。

柴山、福島両老師に敬意を表し「花語らず」を歌ったあと、原田和恵さんにお願いする。先ず「ラルゴ」「G線上のアリア」の演奏のあと、甥のとものり君に最近せがまれるという「お山に雨が降りました」という言葉で始まる「あめふりくまのこ」、そして君は愛されるために生まれた」。

蕎麦打ち名人の赤羽さんに蕎麦以外にも凄い特技があることが判明。オープンマイクが始まる前、蕎麦打ちの話で盛り上がっていたので、その続きをしてほしいと思ったら、「力仕事をしても疲れない方法、身体の筋肉を柔らかくする方法」のデモンストレーションを交えての話。蕎麦打ちに関してもそうだが、教え方が上手い。詳しく書く余裕がないが、指の筋肉や手のツボを揉み解しただけで、身体が少し楽になったような。今日帰りの電車の中で電光掲示板に「中目新聞」と出てきたので、びっくりした。よく見たら「中日新聞」だった。目もよく見えるようになった気がする。ここで休憩。







後半トップは、明日伊那市のJAフラワーセンターで大正琴の発表会があるとのことで、8時過ぎ、区の公民館での練習からもどってきた家人が「愛の賛歌」と「いい日旅立ち」。

次に原田和夫さんが、最近インターネットで全国から仕事の注文が入り忙しくなったという話をしたあと、小学校低学年のときの相馬先生から届いた手紙を朗読。丸山俊治さんの「白雪先生」のCDに対する礼状である。丸山さんがいなかったので、読まれたのは全部ではなかったが、感動が伝わってきた。85歳の先生から71歳の教え子への手紙。

赤羽真理さん、「私を待つ人がいる」「花はどこへ行った」、そして大月高志さんのサポートで「千両梨の実」。続いて大月さん、今夜はポール・サイモン関連の曲を2曲。1曲目はピアノで「明日に架ける橋」、2曲目はギターで「アンジー」。見事な演奏。続いて赤羽(真)さんに再度お願いする。「鹿のように」と「人生の海の嵐に」。最後に、ぼくが福島老師からお聞きした「その分別を捨てなさい」という言葉をもとに、サンタバーバラの山中での体験を歌にした「私は風の声を聞いた」を歌い、オープンマイク終了。その後しばし歓談。


March 4, Friday 2011

4時過ぎ、京都駅着。すぐさま、八条口前の新都ホテルにチェックイン。ここは35年前、レナード・コーエンに会った思い出のホテル。東福寺に極めて近い。JR奈良線で一駅。3分。

5時45分、久重さんと東福僧堂の山門の前で待ち合わせ。昔何度か、宝福寺で学生たちの坐禅の合宿をさせていただいたが、彼女はその参加者の一人。老師を慕うことにおいてはぼく以上なものがある。

通夜の入り口は山門ではなく、通天橋とのことで、いそいで移動する。どこを見てもどこを歩いても、老師との思い出がオーバーラップし、熱いものがこみ上げる。





弔問客は順に、普門院の広間の前に供えられて焼香台で焼香した。焼香したあと、手を合わせ老師に語りかけた。テイヨーやジムから託された言葉も添えた。そのあと、開山堂の前で一礼し、砂の上に美しい市松模様が描かれた庭園を通って通天橋へ。

そのあと久重さんと食事をし、老師の思い話。老師が亡くなられた日、彼女は老師が通った神戸の小学校の一室で、老師から結婚したときにいただいたという書を飾って、お茶の会をしていたとのこと。彼女は出身は山口県だが、ご主人の勤めの関係で、広島、松山など転勤を繰り返したが、現在は老師が生まれた神戸に住んでいる。しかも、老師の生家の近くに。不思議な縁である。7時過ぎ、彼女は京阪で神戸へ。ぼくはJR奈良線で京都駅へ。

ホテルに戻り、2005年に出版された直後、老師からいただいた『いま、ここを無心に生きる』(春秋社)を再読する。今、読み返してみると、この本は老師の遺言ではなかったかと思わされる。三章からなるこの本の第一章は「禅との出会い―私の前半生」で、幼いころの思い出から、いかにして宝福寺の小僧になり、そして南禅寺専門道場に入門したかが綴られる。厳しい境遇にあったにもかかわらず、淡々と。ときにはユーモアをまじえて。

彼は倉敷の男子校に通っていたが、高2のとき、総社市の女子高が男女共学になり、その高校に通うことになる。2学年は生徒数300人で、男子は2人だけだった。大いにもてたようである。ポケットによくラブレターを入れられたらしい。しかし、寺の小僧でお金がない。返事を書く切手がない。それを漏れ聞いた女子学生が、返信用の切手10枚の入ったラブレターをよこしたとのこと。そのときは、その1枚を使って返事を書いたとのこと。残りの切手は兄弟子たちに半値で買い取られたらしい。

事実、老師は若いころは実に魅力的だった。特にその笑顔は。「百万ドルの笑顔」とういうものがあるとすれば、これ以外には考えられないというような笑顔だった。女子学生のみならず、多くの人を魅了する笑顔だった。

第二章は「禅とは何か」では、まさに彼のいう「超二元の体験」が語られる。禅は知識でもなく思想でもなく体験だと。しかも、専門家に向けての難しい言葉でなく、誰もが理解できるような優しい言葉で、エピソードを交えて。老師が本書を「遺言」と心得ていた所以がここからもわかる。

第三章は「アメリカの禅」。鈴木大拙の要請を受けて柴山老師がアメリカの大学へ講義に行くのが1965年、9つの大学を回られたらしい。その後柴山老師は毎年アメリカに行くようになり、1969年には若い雲水の福島元照さんを連れて行くことになった。ハワイ大学が最初の講演場所で、ハワイまでは飛行機で行き、ハワイから柴山老師の希望で船でサンフランシスコへ行くことに。6日後、サンフランシスコに着いたとき、柴山老師は船酔いで「わしは二度と船には乗らんで」とおっしゃったとか。

2日間、サンフランシスコで観光を楽しまれたあと、柴山老師、元照さん、通訳の工藤澄子さんの三人は飛行機でサンタバーバラの空港へ。その空港でぼくはフリデル先生と一緒に彼らを待っていたのである。本にはそのときの様子も書かれていて恐縮するばかり。このように書いていても、柴山老師と福島老師にお会いできた偶然に感謝しないではいられない。

この章の最後にはアメリカの禅に対する願いが綴られている。それは彼の言葉を借りれば「在家禅の理想」であり、それは日本の禅では達成できなかったものだと述べている。若いころ彼はそう考えていなかった。彼は禅の命脈を伝えるのは厳しい僧堂での修行であり、それ以外は禅ではないと考えていた節がある。しかし長年アメリカの大学で講義をして、彼らの熱心で真摯な求道心に触れ、徐々に考えが変わっていったのではないだろうか。在家禅は、厳しい僧堂での修行をすませたプロの禅僧がいて初めて成立するということは言うまでもないが。


March 3, Thursday 2011

昼食後、宅急便で『明日に架ける橋』40周年記念盤のブックレットのゲラ刷りが届く。充実した内容。1970年に初版がリリースされたときのライナーや、いかにして『明日に架ける橋』という邦題がついたのかという当時のディレクター氏の回想録など、興味深い読み物が多い。

早速校正にとりかかる。今まで、何度も校正して修正したつもりが、こうしてちゃんと印刷したものを見ると、まだ修正したいところが出てくる。ぼくはどうも句読点をつけすぎる傾向がある。リズムを保ち、理解しやすくしたいという思いがそうさせるのかもしれないが、印刷されたものをみると、ちょっと目障り。

夕方までに、3種の英文ライナー訳の校正をすませ送る。残るは歌詞対訳の校正。これはライナー訳の校正とは違って大変。大部分は直す必要はないが、数箇所、もっと適切な言い回しがあるはずだと、いつもの「ああでもないこうでもない」症候群。時間ばかり過ぎていく。

7時過ぎ、オーリアッドへ。家人と交代。今夜は寒い。灯油、エアコン、ハロゲンの3種のヒーターをON に。遅くに丸山さん。箕輪での歌声喫茶の帰りとか。カウンターにすわるやいなや、「お土産です」とナイロンの袋を差し出される。先日仕事で佐久へ行ってきたとのこと。袋を開けると、「ぴんころ地蔵」の絵柄の手ぬぐいと、木彫りの小さなお地蔵さん。そういえば、佐久のこのお地蔵さんを紹介するテレビを数日前見たばかり。佐久は「長寿の里」で、このお地蔵さんを目当てに、多くの観光客が訪れるらしい。いくら「ぴんころ」ではあっても、往生はもっと先に延ばしてほしいが、この小さな「ぴんころ地蔵」はオーリアッドのカウンターの置くことに。どなたでもどうぞ、頭をなでてやってください。

明日は老師の通夜に、明後日は密葬に参列することにした。飛び入りライブまでには戻ります。


March 2, Wednesday 2011

昨日に続き訃報が届いた。夜、オーリアッドに電話があった。昔、ぼくのクラスにいた学生から。「福島老師がお亡くなりになりました」。ご病気で療養されていることは知っていたが、この日がこんなに早くくるとは思わなかった。3月1日は老師の誕生日。享年、満78歳

    
   
Keido Fukushima Roshi (then Gensho Fukushima) and Zenkei Shibayama
    Roshi at the Univercity Center of the University of California, Santa Barbara.
     Photo by Hisashi Miura, March 1969.

この写真は1969年3月、UCSBのUniversity Center のベランダで撮った写真。右は柴山全慶老師。左は36歳の福島元照(慶道)さん。お二人との出会いによって、ぼくの人生は大きく変わった。柴山老師にも、福島老師にも本当にお世話になった。柴山老師が亡くなったのは、1974年の8月の終わり。そのとき、ぼくはテイヨーとジムが修行している宝福寺にいた。福島老師に連れられて、南禅寺のお葬式に参列した。雲水たちの読経と蝉時雨が境内に響き渡った。暑い日だった。

福島さん、大変お世話になりました。ご期待に応えることのできなかった不肖の弟子でしたが、どうぞお許しください。いくつもの偶然が重なって、今生でお会いできたことに心より感謝いたします。ご冥福をお祈りいたします。合掌 三浦久


                           ■

福島慶道氏死去 東福寺派管長、世界へ禅の心

 国内のみならず米国の大学も回り、禅の心を説き続けた臨済宗東福寺派管長で、大本山東福寺(京都市東山区)住職の福島慶道(ふくしま・けいどう)氏が、1日午前10時10分、岡山県倉敷市内の病院で死去した。78歳。神戸市出身。葬儀告別式は京都市東山区本町15丁目の東福寺で行う。日時は未定。

 晩年はパーキンソン病にかかり、右半身が不自由ながら、夏の暁天講座などでは自ら法話に当たった。体調が悪化し2009年夏に東福寺で行われた暁天講座を最後に入院、療養生活を送っていた。

 1933年、神戸市に生まれた。集団学童疎開で岡山県総社市に移り、戦後の47年、祖母の死を契機に出家を決意し、同市の東福寺派・宝福寺に入門した。56年、大谷大文学部仏教学科卒、61年には同大学大学院博士課程を修了。南禅寺専門道場(僧堂)に入門し、当時、臨済宗南禅寺派管長で師家だった故柴山全慶氏につく。80年に東福寺専門道場の師家(指導者)に就き、86年には、国賓として来日したチャールズ英国皇太子を東福寺に迎えた。91年から管長も務めていた。

 「禅の命脈は僧堂にあり」を持論として、管長と師家を兼務し、多くの弟子を育てた。69年に柴山全慶氏とともに米国に渡って座禅会を開き、89年からは毎年米国の大学に出講して禅を説いた。91年には重要文化財「大禅堂」の復興に尽力した。著書「無心のさとり」「いまここを無心に生きる」などを残した。(3月1日 京都新聞)

http://www.kyoto-np.co.jp/politics/article/20110301000092/1




March 1, Tuesday 2011

朝、スージー・ロトロが亡くなったというニュースが飛び込んできた。ボブ・ディランの若い頃の恋人。しんみりさせられた。Tomorrow Is a Long Time や One Too Many Mornings など、ディランの永遠不滅のラブソングは彼女のおかげでできた歌。ブレヒトやランボーを彼に紹介したのも彼女だ。享年67歳。長い間病気(肺がん)と闘ってきたとのこと。彼女が数年前、60年代初期のグリニッチビレッジでの生活を中心に自伝を書いたのは、死期の近いことを察知していたからか。(日本では従来スーズ・ロトロと表記されてきたが、スージーが正しいようである。)
http://www.guardian.co.uk/music/2011/feb/28/suze-rotolo-obituary

スージーとの出会いがなかったならば、ディランは今われわれが知るディランとは大きく異なっていただろう。

5時半から上伊那農業高校定時制の最後の卒業生16名を送る予餞会(お別れパーティー)。先生方の挨拶のあと、ダニエル・ピアスが日本語で挨拶したあと、いつもの即興演奏。そのあと、昨年卒業し、現在東京の専門学校でギターを学んでいる二人によるギター・インストゥルメンタル。

次がぼくの出番。昨年の予餞会でも歌わせてもらったので、何を歌ったらいいか、何を話したらいいか迷っていたが、今朝のニュースを知って、迷うことなく1曲目は「明日は遠く」に決めた。そして、スティーブ・ジョブズが鏡を見て「もし今日が最後の日だったら、今日これからしようとしていることをしたいと思うだろうか」と自問した話をしたあと、もうひとつの鏡の話をする。それは一昨日の日記に書いた英文の内容。「鏡の中に写っている人は、自分自身の尊敬と賞賛に値する人か。鏡の中から自分を見ている人物は自分が一緒にいて楽しいと感じる人か、もっと知りたいと思う人か」、要約すると「鏡に写っている人と自分は友だちになりたいか」。朝、そう自問して鏡に向かうだけで、心境が少しは変わるだろう。

そのあと、「カムサハムニダ・・・」を歌い、クライストチャーチの地震の話をし、次男のために書いた「あの果てしない大空へ」を歌う。

次に、6人の先生方が上農定時制版の歌詞を織り交ぜて「見上げてごらん空の星を」を歌って前半終了。







後半は、去年も出演した「サブニュマ」というアフリカンドラムのグループの演奏と踊り。激しいドラムのリズムに合わせて、赤ちゃんをおんぶした若いお母さんたちが激しく身体ゆすって踊る。感動的。赤ちゃんは大丈夫かと少々心配になった。

次に2人の先生のサックスとピアノによる「明日に架ける橋」の演奏。これが素晴らしかった。そのあと入学から卒業までの4年間の一人ひとりの生徒をフィーチャーしたスライドの上映。最後に、一人ひとりの名前が呼ばれ、6人の先生が順番に言葉を述べ、花束を贈る。卒業生からも先生方に色紙が贈られ、お礼の言葉が述べられた。今まで、大小さまざまな卒業式や卒業式関連の行事に参加してきたが、今年で幕を閉じる上農高校定時制の予餞会ほどに心温まるものはなかった。そこには形式的ではない、心からの気持ちがこもっていた。この16人を送り出す正式な卒業式は2日後行われる。

守屋先生のおかげで、いい体験をさせてもらった。



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