OREAD Diary December 1-31, 2010

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December 31, Friday 2010

朝食後、テレビのチャンネルを回していたら、柴田トヨさんの顔がアップで映しだされた。番組が始まってから10分ほどたっていたが、最後まで見た。柴田トヨさんをフィーチャーした「99歳の詩人 心を救う言葉」という番組。彼女の『くじけないで』という詩集がいかに多くの人々を励まし続けているか取材したドキュメンタリー。とてもよかった。

昨日の午後、リンゴを家の近くのモミジの木に2つさしておいた。今朝、いくつかの鳥がきてついばんでいた。部屋の中から二重窓を通しての撮影。鮮明には撮れなかった。続いて外に出て、先ず、ドアの上の注連飾りを撮る。これは家人が、区の公民館の注連飾り講習会で作ってきたもの。松の葉とミカンはぼくがつけた。素朴な味わいが気に入っている。全国各地から大雪のニュース。しかし辰野は爽やかに晴れ上がっている。明日の元旦は辰野も雪の予報。大降りにならなければいいが。





2010年が今日で終わる。振り返ってみれば、あっという間だった。特に、6月に、カリフォルニア、マウントシャスタ在住のレスリー・ティフトを迎えてのほたる祭りライブ以降は、時間が猛スピードで走り過ぎた。もう半年が過ぎたのかと唖然!!7月の七夕コンサート、8月後半からレナード・コーエンの Songs from the Road と Revised Essential Leonard Cohen の対訳、そのあと続いてスプリングスティーンのThe Promise: The Darkness on the Edge of Town Story の対訳。ほぼ3ヶ月、この仕事に没頭した。その間に印象に残っているイベントは、「60年代の対抗文化とポピュラーミュージック―ボブ・ディランとレナード・コーエンを中心にして」と題して、信州大学の全学教育機構国際交流セミナーでお話しする機会を与えられたこと。

11月には、長野県内のAETの若い先生方に、英語の歌を使っての英語教育の有効性について話す機会を与えられた。「釈迦に説法とはこのことか」と恐れたが、彼らの積極的、意欲的な受講態度によって、このトークは実に「愉快」なものになった。

12月には、レナード・コーエンの3年間にわたるワールドツアーの最後のコンサートを聞きに、ラスベガスへ行ってきた。プノンペンでのコンサートがキャンセルされたので仕方なく、時間的経済的余裕のないまま、出かけたが、結果としては、これでよかった。いくつかの出会いとともに、学ぶことの多い旅になった。

ラスベガスから帰ってきてすぐ、マンダラ2での第17回年末ライブ。時差ぼけはないと思っていたが、やはり疲れていたのだろう。後半は思うように声が出なかった。それでもいくつかの好意的なフィードバックをいただき感謝している。柴田トヨさん、99歳。ぼくはまだ文字通り、a kid with a crazy dream。

来年がどんな年になるか楽しみである。一年間ありがとうございました。よいお年をお迎えください。


December 30, Thursday 2010

朝起きると雪が降っている。かなりつもっている。しばらくしたら小ぶりになってきた。

午前中、リビングの掃除をし、そのあと、乱雑にサンデッキの上におかれている植木鉢やプランターなどをガレージに移す。秋のうちにやっておくべき仕事。

昼過ぎ、オーリアッドの2階の和室へ探しものに行くと、入り口の小さなキッチンの蛇口からほんの少し水がもれている。ナットが緩んでいるのかもしれないと締めてみたら、ますます漏れ出した。水道屋さんに電話をするとすぐにきてくれた。パッキングを取り替えても、止まらない。結局ひびがいっているとのことで、蛇口をすべて取り替えることに。早目に気づいてよかった。

2010年、オーリアッド最後の営業日。夕方からまた雪がふりはじめ、午後雪かきをしたのに、歩道にもまた雪がつもっている。

藤森さんと奥さんが愛音ちゃんとやってきた。彼がいつも食べるカレーがなくて、ペペロンチーノとナポリタンのオーダー。

スパゲッティはゆでるのに時間がかかる。その間に彼が外に出ていく気配がする。いつものようにタバコを吸いに出たのだと思っていた。それにしては時間がかかる。ぺペロンチーノ2人前、ナポリタン半人前が出来上がり、1番テーブルにもっていってもまだ戻ってこない。電話でもしているのかな、早くきて、冷めないうちに食べればいいのにと思っていた。

11時閉店して外に出ると、歩道と駐車場の雪がきれいにかかれている。午後雪かきをしていたとき、若い警察官が、隣の介護センターの前の歩道の雪をかいていて、今にもオーリアッドの前まできそうだった。だから、おそらく彼が、オーリアッドの前から伊那富橋までの歩道の雪をかいてくれたのだと思った。

しかしよく見ると、オーリアッドの東の端から伊那富橋までの歩道の雪はかかれていない。しかも、オーリアッドの駐車場の雪もすっかりなくなっている。警察官は、駐車場の雪までかきはしないだろう。

スパゲッティをゆでるのに時間がかかったので、その間に藤森さんが雪かきをしてくれたのに違いない。Thanks a million。

夕方、長男帰省。猫たちもうれしいそう。ありがたいことに、猫たちといえば、テレビに跳び乗るのは諦めたようだ。


December 29, Wednesday 2010

朝起きたら一面の雪景色。でも雪かきに出るほどでもない。葉を落とした白樺の枝に雪がついて、白い花が咲いたよう。



午後、家人に頼まれ、神棚の掃除。

オーリアッド。出かける前に雪が激しく降り始める。これではお客さんはこないだろうと思っているところに原田さん。早速一局。また負けた。序盤で不用意な手が多すぎる。

おそくになってMさんがやってくる。名古屋の大学の先生。いろいろ話しているうちに、今年の紅白に彼が教えている大学の学生が出るという。名前は西野カナとのこと。彼女は大学名を公表していないとのことなので、Mさんの名前も匿名にしておく。彼女の名前はまったく聞いたことがなかったが、グーグルで検索したら出てきた。けっこう有名である。紅白に出るくらいだから有名なはず。知らないのはぼくだけかも。

帰りがけに、Mさん、「これをもらっていきます」と Live in London のDVDを一枚。彼はコーエンの古いアルバムを一枚もっている。昔むかし、コーエンの何枚かのアルバムの対訳をしたと彼に話したところ、家に戻って、彼がもっているアルバムの歌詞カードを見たら、ぼくの名前があって驚いていたと話してくれたことがある。Songs of Leonard Cohen だったか、Songs from a Room だったか。

11時閉店し外に出ると雪は降っていない。まったく積もっていない。よかった。激しく降ったのは、いっときだったようだ。


December 28, Tuesday 2010

朝11時、業者が新しいテレビを設置しにきてくれた。1ヶ月以上も前に注文しておいたもの。デジタル放送の映像は予想していた以上にキレイ。今日は、見なくてもいい番組まで見てしまった。

困ったことは、猫たちが薄いテレビの上に跳び上がろうとすること。古いテレビの上は広く、彼らにとっては格好の展望台であり、温かい寝場所であった。今度はそうはいかない。2センチの幅ではそこにとどまっていることは難しい。身軽なフィービーは下から思い切り跳躍して上に行くが、すぐに落ちてしまう。一応固定はしてあるが、思い切りぶつかったら、倒れてしまいそう。飛び乗ることは無理だということを学習してくれたらいいのだが。

午後1時定期健診のため病院へ。本来は2週間前の水曜日だったが、スケジュールの関係で延ばしてもらった。いつもの降圧剤に加えて、モーラステープ、葛根湯、そしてイソジンを処方してもらう。順番を待つ間に、和田静香さんの『ワガママな病人 vs. つかえない医者』(文春文庫)読了。面白い。英語で言うと hilarious とでも言おうか。

寝ている間に猫たちがテレビを傷つけたらいけないと、家人がテレビを壁に押し付け、毛布をかぶせた。これで諦めてくれたらいいのだが。壁に押し付けると飛び上がることができないほどに薄い。信じがたい薄さ。しかし毎晩こんなことをしてはいられない。同じ「悩み」を克服した人の話を聞きたいものである。

今年も残すところ3日。


December 27, Monday 2010

困った。プリンタの黒のインクがなくなり、先日買った安いインクに取り替えようとしたらサイズが違う。無理やり合わせ、セロテープで貼り付け、印刷してみた。印刷できない。午後、純正インクを買ってきて取り替えたが「アイドリング中」という表示が出て印刷不可。困った。
  
[ノズルをクリーンアップしたら、アイドリング中という表示は消えませんが、とりあえず印刷できました。7:45 am Dec 28]

寒い日。昼前散歩に行こうと出かけたが、風が冷たい。しばらく歩いたが、降圧剤をのんでないことを思い出し、引き返すことに。無理は禁物。

秋のうちに切っておいた小枝を暖炉に入れて燃やす。すぐ燃えてしまうが、どんどん小枝を足す。けっこう暖かい。猫たちがやってきてしばらく一緒に炎を見ている。でも決して近づかない。

午後遅く、テレビをつけたら、ベートーベンを主人公にした映画をやっていた。最後まで見てしまった。あとで調べてみたら、『敬愛なるベートーベン』という映画。原題は Copying Beethoven。「親愛なる」は聞いたことがあるが「敬愛なる」は聞いたことがない。「敬愛」ときたら「する」と続くのが普通ではなかろうか。

途中から見たので、シチュエイションがわからないところもあったが、まあまあ楽しめた。耳の聞こえないべートーベンが、彼の音楽を写譜するためにやってきた若い女性の助けを借りて、交響曲第九番を指揮するところは圧巻だった。原題の Copying は写譜を意味する。


December 26, Sunday 2010

起きてすぐ外を見る。一面真っ白。でもうっすらと積もっているだけ。雪かきの必要なし。ありがたい。

燃えるゴミの年内最後の収集日が明日とのこと。朝から、ぼくの部屋に散乱している不要な資料などをゴミ袋に。2袋もできた。A4の紙がたくさん入ったゴミ袋は重い。

明後日、新しいテレビが入る。古いテレビの周りを整理する。夥しい数のビデオテープ。専任の教員だったころ、教材としてたくさんのドキュメンタリー番組を録画した。今では無用な長物。かさばって困る。他にもビデオテープやカセットテープが入ったダンボールがいくつもある。もう決して見たり聞いたりしないもの。でもなかなか、今流行の「断・捨・離」とはいかない。しかし思い切って、捨てるものは捨てなければ、いつまでも整理がつかない。分ってはいるのだが。

夜、以前、松本のSBCで番組をもっていたとき、ディランとの関連で毎週のように投書してくれた熱烈なディランファンの「野溝の武蔵」さんからメールが届いた。

    ご無沙汰しております。以前、お会いした時から薦めていただいていた
    レナードコーエンのDVD、遅れ馳せながら買いました。コーエン氏の人
    の世のはかなさを歌う歌声に、最近はどんな映画を観ても泣いたことも
    ないのに、何故か泣けてきました。このビデオ・・キースジャレットのソロ
    即興演奏ビデオと同様、我が家、子々孫々まで語りつなぎたいビデオで
    あります。

    それに比べて、我がボブディランは何んでしょうか、ここ数年のライブで
    の醜態は・・電子ピアノの前で唄うのはもうやめてもらいたいものです。

    ところで話は変わりますが、私の知り合いの若輩者に分をわきまえずに、
    オーリアッドの飛び入りライブで唄いたいと申しておる者がおります。一月
    になったら連れていきたいと思っておりますがよろしいでしょうか?世代 
    が違う為、ディランもスプリングスティーンも知らない愚かな者ですが。

すぐに「いつでもお出かけください」と返信したのだが、2度も -The following addresses had permanent fatal errors-と書かれて戻ってきてしまった。武蔵さん、その若者を連れていつでもお出かけください。


December 25, Saturday 2010

クリスマス。今年最後のオープンマイク。

トップバッターは赤羽真理さん。今年一年赤羽さんのキリスト教の教えに基づいた歌を聞かせてもらい、多くのことを学ばせてもらった。中でも「許し」は衝撃的で、聞くたびに自分の中の矮小さに気づかされ、襟をたださずにはいられない。今日も後半この歌を歌ってくれた。名曲「千両梨の実」の最後には、毎回異なる聖書の一節が挿入されるが、今日は、キリストが蘇ったように、人は日々新しい自分に生まれ変わることができるという主旨の言葉。2011年に向けて希望を抱かせてくれる言葉。

2番目は丸山俊治さん。この一年たくさんの新曲を聞かせていただいた。お孫さんのつぶやきからできたという「雪のかくれんぼ」、原田和夫さんの辰野から佐久への雨中のツーリングに触発されてできたという「白雪先生」など。それに柴田トヨさんの詩集『くじけないで』の中の詩に曲をつけた歌。今日はその中から「風と陽射しと私」を歌う。最初にこの歌を聞いたときは、まだ他の人の詩に曲をつけた歌だったが、今夜は完全に丸山さんの歌になっていた。

3番目は、オーリアッド2度目の登場、堀越哲朗さん。今夜は前回よりも大きいエスラジで幽玄なる響きを聞かせてくれた。時間帯によって異なる「ラーガ」があるとのことで、先ず「夜のラーガ」。そして、エスラジという楽器の説明をしたあと、「アメイジング・グレイス」。聞きなれたメロディだけに、エスラジに親近感を覚える。驚いたことに、堀越さんの奥さんは、12月10日と11日のラスベガスでのレナード・コーエンのコンサートを見に行ったとのこと。シーザーズパレスのコロシアムでお会いしたかった。

4番目は名取由紀子さん、名取さんは決してピアノが上手ではない。上手ではなかった、と言うべきか。オーリアッドに来るたびに進歩していて、この一年でうんと上達した。今夜の後半に弾いてくれた「駅」はすばらしかった。ぼく個人としては「太陽がいっぱい」などの映画音楽の演奏が好きである。

5番目は名取芳夫さん。マンダラ2での年末ライブについて語ってくれたのだが、少々酩酊されていて、話が redundant に。しかし、名取さんが言わんとすることは明確に伝わった。その中心は、坂村真民さんの「念ずれば花ひらく」という言葉のように、ぼくが60年代後半に念じていたことが、60歳代後半に差し掛かりつつある今、花開きつつあるというもの。ぼくには少しも花開いているようには思えないが、そう感じてくださっている人がいるというのはありがたいこと。とにかく、名取さんの口から坂村真民さんの名前が発せられたことに驚いた。坂村真民さんと初めてお会いしたのは1970年の夏のこと。その出会いについては次のURLから。http://www.nagano.net/journal/miura/990814.html

6番目は原田和恵さん。原田さんは最初お父さんからオーリアッドへ行かないかと誘われたときは「反発」して来なかったようだが、いつの間にか、毎週土曜日、美しい歌声を聞かせてくれるようになった。甥のトモノリ君に寄せる優しい想いも。特に「君は愛されるために生まれた」「そばにいるよ」は本当に素晴らしい。今夜は後者は歌わなかったが、後半に歌った「ゴッド・ブレス・ユー」もよかった。

ここで、名取さんご夫妻が千葉から持参してくださったケーキをいただきながら休憩。美味しかった。ありがとうございました。
               
 Intermission

後半トップに、ぼくがレナード・コーエン三部作。2曲目の「レナード・コーエンに捧げる歌」は本来4拍子の歌。途中のコーラスのところで、3拍子で歌っていることに気づいた。最後に歌った、飛行機の中で浮かんだメロディをつけた「どこまで歩き続けても」は自画自賛ながら、かなり評判がいい。Bmのハーモニカを使いたいが、見つからない。D♭mを使っているが若干音が高い。


後半2番手は大月高志さん。12月11日にマンダラ2へライブを聞きにいき、そこで聴衆の中に石野真子さんがいて、その美しさに圧倒されたという話をユーモアを交えて語ったあと、クリスマス三部作。「星に願いを (When You Wish upon a Star)」、クリスマス・キャロル、そして「カノン」。今年一年華麗なピアノを聞かせてもらった。しばらく休んでいたあと再登場してからは鬼気迫る見事な演奏。


そのあと、前半に演奏してくれた堀越、赤羽、丸山の三氏が演奏したあと、原田和夫さん登場。丸山さんが歌った「いつか叶うといいですね」と「満州の丘」を受けて、満州における幼児体験を語る。頭にはぼくがラスベガスのオートバイ・グッズ店でみつけた Harley Davidson のロゴの入った帽子が。「チョイワル爺さん」によく似合っている。この帽子をかぶって、デニス・ホッパー風に大型バイクを運転している原田さんの姿を想像したが、今はバイクを運転するにはヘルメット着用が義務づけられていて、それは無理というもの。


そのあと、名取由紀子さん、原田和恵さんの演奏と歌があり、最後に、赤羽、大月、三浦で「アメイジング・グレイス」。客席にいる方々にも歌詞カードを配り一緒に歌ってもらう。これで今年一年のオープンマイク終了。



本当に「アメイジング・グレイス(驚くべき恵)」であった。多くの方々のご協力を得て、今年の営業もあと29日30日の2日を残すのみとなった。3年はやろうと思っていたオーリッドは8年目に入っている。来年はどんな年になるだろうか。どんな出会いが待っているだろうか。

レナード・コーエンが「私は私なりのやり方で自由になろうとした」と歌うように、「オーリアッドはオーリアッドなりのやり方で」来年も営業します。オープンマイクはどなたにも開放されています。心のこもった演奏であれば、上手い下手は問いません。スピーチや、詩の朗読なども歓迎いたします。是非一度お出かけください。


December 24, Friday 2010

寒い一日。午後、城山公園までウオーキング。徳本水カーブのところは車が通らず、しごく具合がいい。あまりの寒さに、しばらく走ってみる。守屋山の上空は小雪が舞っているのか、かすんで見える。帰りには少し汗ばんで、身体がぽかぽか。この冬はできるだけウオーキングを続けたいもの。

クリスマスイブ。オーリアッドへ向かう車の中、そうだ今夜はクリスマスイブ、ディランの Christmas in the Heart を一年ぶりに聞いてみようと思い、オーリアッドに着いて、CDを探したが見当たらない。代りに、Modern Times を聞く。1曲目の Thunder on the Mountain が流れてきたとき、これはいいと思った。久しぶりに聞くせいかとても新鮮。Christmas in the HeartTogether through Life と比べて、だみ声の度合いが多くない。

数日前にラオスから、今日はカンボジアから、ダルニー奨学金証書が届いた。今年の1月17日に行った「キング牧師の日チャリティーコンサート」に、多くの方々が参加して下さり、ラオスの3人の子供、カンボジアの4人の子供を一年間小学校へ送ることができた。

来年度は詳細未定だが、1月16日(日)に行うことになっている。このコンサートの言いだしっぺのスーザン・ブランツさんを始め、何人かの方々から参加したいとの連絡をいただいている。参加費は演奏する人も、聞きにきてくださる方も1000円。その全額が民際センターを通して寄付される。歌いに聞きにお出かけください。



December 23, Thursday 2010

午前中、家人に頼まれ、モロ(地下の貯蔵庫)の掃除。モロの掃除というよりも、モロの入り口の板の上に置いてある草刈り機などの農機具をどかし、モロにアクセスできるようにする仕事。モロの中は、去年の取り残した野菜が腐っているものが少しあったが、おおむねキレイである。ジャガイモ、長芋、それに白菜をしまう。

昨夜のライブの疲れも加わって、腰が少し痛む。要注意。

夜、辰野教会の聖歌隊の方々がキャロリングにきてくださった。もう何年続いていることだろう。町中の信者の家庭を回ったあと、オーリアッドへきて下さる。長谷川牧師さんの祈りと聖書朗読のあと、クリスマス・キャロルを5曲ほど。見事な四部合唱。ピアノ伴奏は原田和恵さん。注文いただいた食事の用意ができるまで、「君は愛されるために生まれた」を含む歌やピアノ演奏。それにスピーチも。




赤羽真理さんは、指を怪我したとのことで、今夜は歌えないとのこと。土曜日までに直ってくれているといいが。ぼくが「どこまで歩き続けても」」と「レナード・コーエンに捧げる歌」。みなさんのおかげでとてもいい夜になった。いただいた干し柿が美味しかった。

                    ■

12月13日(月)の日記の続きを書き終えた。ちょっと長くなってしまったが、この日の朝の、予定のフライトが大雪きのため欠航になったあとの右往左往した様子がお分かりいただけると思う。今となっては結果オーライですが、そのときはどうなることかと思いました。

このことで学んだ教訓は2つ。

1.もっとも安い航空券だからといって飛びつかないこと。冬季は、雪の影響を考えること。

2.ほとんどの場合は、掛け捨てになってしまうが、旅行保険に入っておくこと。今回一番安い保険に入ったのだが、それでも、欠航にともなう諸費用(ホテル代、食事代、日本への電話代)などが、一人5万円まで保証されることになった。



Decmeber 22, Wednesday 2010

昼前、家人と国道153号線に新しく架かった橋を通って、城山公園までウォーキング。橋の上から見る徳本水付近の景色は一変した。守屋山の上には雲があったが、まずまずの天気。帰りは、大きくカーブした旧153号線沿いの歩道を通った。車が通らなくなった分、ウオーキングには好都合。これまではこの100mを歩くだけで、排気ガスのシャワーを浴びた。



時集合の予定が、19号線の渋滞によって、15分遅れで JUST に到着。加奈崎芳太郎さん、ぼく、そして堀六平さんの順にリハーサル。本番もその順番。先ず3人でフォークソングとの出会いになどについて語り、「500マイル」を一緒に歌って、トップバッターの加奈崎さん。

加奈崎さんの力強いギターと歌のあと、ぼくが4曲。「バード・オン・ザ・ワイヤー」「レナード・コーエンに捧げる歌」「電線の上の一羽の鳥のように」(new version)、そして「祈りの歌」。次に堀さん、90を過ぎたお母さんに捧げた新曲など。堀さんは歌がうまい。高音がきれいに伸びる。最後にまた、少しトークがあり、 Blowin' in the Wind , We Shall Overcome を聞きに来てくださったみなさんと一緒に歌って終了。





お客さんはそれほど多くはなかったが、オーリアッドにゆかりのある方々が何人か顔を出してくれた。3人の音楽はそれぞれ異なる。音楽の楽しみ方も人それぞれ。少しでも楽しんでもらえたらいいのだが。

勤め先が近くとは言え、真っ先にきてくださった原田さん。写真を撮って下さった丸山さん。ありがとうございました。永田さんには、せっかくきていただいたのに時間の関係で「六朗」を歌うことができずに、ご迷惑をおかけした。お友だちと一緒に来てくださった三島さんとはお話しもできなかったが、来てくださったことに、そして何よりも、眼瞼下垂手術のきっかけをいただいたことに感謝。

そのきっかけとなった歌がレナード・コーエンの A Thousand Kisses Deep。

http://www.youtube.com/watch?v=xt_rlHdTYMU

  The ponies run, the girls are young,
  The odds are there to beat.
  You win a while, and then it’s done --
  Your little winning streak.
  And summoned now to deal
  With your invincible defeat,
  You live your life as if it’s real,
  A Thousand Kisses Deep.

  子馬は走り、少女は若い
  立ち向かうべき勝負はいつもそこにある
  しばらくは勝つが、すぐに終わる
  おまえのわずかな連勝記録
  そしておまえはおまえの無敵の敗北と
  向き合うことになる
  おまえは生きる
  まるで人生が実在するかのように
  千回のキスを重ねて (miura 訳)

眼瞼下垂手術についてのぼくのエッセイは次のURLから。
エッセイというよりも、眼瞼下垂の手術までの経過を掲示板に書いたものを、整理しまとめたもの。
http://www.hi-ho.ne.jp/gotta/miura2/ganken02.htm


December 21, Tuesday 2010

午後2コマのクラス。最初のクラスでは約半数の学生がプリゼンテーション。内容は面白いのに、書いたものを早口で読んでしまう学生が何人もいて、減点。プリゼンテーション能力は、必ずしも英語の能力に正比例しないようだ。

次のクラスでは、時代や意識の変化に応じて英語が変わってきたことについてのエッセイの小テスト。コンピュータが登場する前、mouse といえば人々を驚かせ叫び声を上げさせる小さな動物だった。変化はジェンダーに関して特に顕著である。mankind は humankind に。stewardess は flight attendant に。the man of the year は the Newsmaker of the year に。

両方のクラスで、Norwegian Wood の歌詞を解説し、CDを聞き、歌う。これで後期のために用意したすべての歌を歌ったことになる。前のクラスでは The Sound of Silence を、後のクラスでは Mr. Tambourine Man を歌う。どちらもしっかりと歌えるようになった。学生たちが Mr. Tambourine Man を大きな声で歌うのを聞きながら、熱いものがこみ上げてきた。

授業が終わったあと、南松本駅近くの JUSTへ。明日のコンサートの打ち合わせ。六平さんに会うのは今年の一月以来。元気そうでよかった。お客さんが入ってくれたらいいが。

夜、12月12日(日)の分の日記を書く。

Cirque du Soleille による LOVE の動画を見つけた。 Mystere にも音楽があって、それも悪くなかったが、こっちのほうがおそらく数倍楽しめただろう。
http://www.youtube.com/watch?v=HuUn0D-3wKs&feature=related


December 20, Monday 2010

少しずつ、少しずつ、疲れがとれている。この10日間で起こったことはまるで、ずっと昔に起こったことのようだ。旅に出て、一瞬一瞬、自分自身でいなければいけなかったので、時間が実にゆっくり流れたのである。慣れ親しんだ環境にいて、ルーティンとして何も考えず事を進めることができるときは時間は、実に速い。

ディランが Like a Rolling Stone のコーラスで歌っているのはそのことである。

  How does it feel
  How does it feel
  To be on your own
  With no direction home
  Like a complete unknown
  Like a rolling stone?

慣れしたんだものに戻る道筋もなく、一瞬一瞬を未知のものとして、自分自身であるというのは、どんなふうに感じるか、と問うのである。

子供の頃の時間が長いのは、一瞬一瞬が常に「未知との遭遇」だからだろう。年を取れば取るほど、未知のものは少なくなり、「感動」することもなくなる。同じことの繰り返し。

今日は午後から、写真だけ貼り付けておいた12月10日と11日の日記を書いた。やはりリアルタイムでないので、記憶が薄れてきているところがある。レナード・コーエンの3年に及ぶワールドツアーを締めくくる最後2回のコンサート。mp3 や YouTube で音源や映像を楽しむことができます。



December 19, Sunday 2010

今日は朝からうとうと。ついに午後たまらずベッドに横になったら、夕方までぐっすり眠ってしまった。それでもまだ疲れている。

テレビはバラエティの特集番組ばかりで見るものがない。夜遅くに「情熱大陸」を見る。柳家三三(さんざ)という若手の落語家をフィーチャーした番組。彼の落語にかける意欲には並々ならぬものがある。

火曜日に最後のクラスがあり、その翌日は松本で歌うことになっている。堀六平さんと加奈崎芳太郎さんとの三人の会。さてどうなることか。


December 18, Saturday 2010

朝9時半、原宿駅で長男と待ち合わせ、タクシーでリッツ・カールトンへ。家人の姪の結婚式と披露宴参列のため。新郎を一目見たときから好感をもった。いい若者である。学生時代は4年間ラクロスをやっていたとか。ラクロス・チームのメンバーの余興がよかった。新婦のフライトアテンダント同期生たちの出し物も、酸素マスクの扱い方をダンスにしたもので笑いを誘った。両方の余興ともに、心のこもった映像入りのメッセージもあり、そのプリゼンテーション能力に目を見張った。



美味しい料理をいただきながらのひとときではあったが、親族紹介から数えると5時間を超えていた。少々疲れた。

新宿で長男と別れ、高速バスで家に着いたときは6時を過ぎていた。バスを降りると、冷たい風が。やはり信州は寒い。

レナード・コーエンコンサート、年末ライブ、結婚式と続いた。オーリアッドも臨時休業が続いた。ここでまた日常に戻らねば。



December 17, Friday 2010

3時過ぎ、吉祥寺東急インにチェックインし、4時マンダラ2へ。すでに野間さんは、後ろのマルテーブルでチューニング中。石崎さんは機材を運び込んでいるところ。

新曲を中心にリハーサル。6時開場。7時10分開演。前半はまあまあだったと思うが、後半若干疲れが出た。時差ぼけは大丈夫と思っていたが、身体の芯のどこかが疲れている。声に力がこもらない。

「バード・オン・ザ・ワイヤー」「レナード・コーエンに捧げる歌」「どこまで歩き続けても(「電線の上の一羽の鳥のように」のニューバージョン)の流れはよかったと思う。英語のリズムの解説をして Heart with No Companion をみなさんと一緒に歌ったのは、期待した通りにはいかなかった。家人曰く「あの歌は難しいわよ」。リズムについての解説が速過ぎた、という声も。





25年前、信州大学で非常勤として勤め始めた最初のクラスにいた今井君がきてくれた。クリシュナムルティの The First And Last Freedom がテキストだった。このテキストが彼のその後の人生に大きな影響を与えたと以前メールをもらったことがある。

"first and last freedom"、「最初で最後の自由」、「究極の自由」、あるいは「唯一の自由」とでも訳そうか。コーエンが「私は私なりのやり方で自由になろうとした」と歌う自由。

後半は話を少なくしたが、それでも終わりは10時近くになってしまった。遠方より来てくださった方々にはご迷惑をおかけした。毎年来て下さる方々には、今年もぼくの拙い歌を支えてくださったことに感謝。そして今年初めて来てくださった方々にも、心よりの感謝を。

野間さん、石崎さん等とささやかな打ち上げをして、11時過ぎ、ホテルへ。明日は家人の姪の結婚式に参列することになっていて、早目にお開き。


December 16, Thursday 2010

昨夜は午前2時近くに寝て、今朝は9時過ぎまでぐっすり眠った。日中少しうとうとしたが、一度も横になることはなかった。今回は時差ぼけを上手に回避することができたようだ。

一日、往きの飛行機の中で浮かんだメロディを確定することに費やした。いつもはギターを弾きながら曲をつけるのだが飛行機の中ではそうはいかない。古い歌の歌詞を口ずさんでいるうちに新しい歌になった。明日のコンサートで歌えそう。

短い期間であったが、テレビのない生活をし、今日久しぶりにテレビを見た。ちょっとうんざり。不要なものばかり。

シーザーズ・パレスのバーで演奏していたジャズバンドのピアニストが素敵だった。カメラを向けたらにっこり笑ってくれた。ラスベガスは酒と売春と麻薬とギャンブルの町でマフィアが闊歩する危険なところだという先入観があった。確かに「HOT BABES DIRECT TO YOU」という大きな文字が書かれた車が走っていたりするが、きわめて健全な町に見えた。誰もが明るいいい顔をしている。従業員も警官もみんな親切。タクシーの運転手もみんな笑顔で、積極的に話しかけてくる。



昨日の朝、空港へ向かうタクシーの運転手に、そんな話をしたら、「マフィアのいる危険な町というのは映画の中だけの話。ここは観光が重要な町だから、お客さんにもう一度来てもらうためにみんな精一杯努力している」とのこと。なるほどと思った。笑顔の素敵な運転手は、チップも多いはず。

チップといえば、12日、お昼を食べに出かけたとき、少年がキーボード弾いていた。ぼくが1ドルをバイオリンケースに入れると、昨日グランド・キャニオンへ一緒に行かないかと誘ってくれたカナダ人夫妻の妻のアリソンが20ドル紙幣を入れた。するとその男の子は演奏を止めて、その紙幣をつかむと「ママ、ママ!見て!20ドルだよ。20ドルもらったよ!」と大喜びで、少し離れているところにいたお母さんに向かって叫びだした。おそらく一人の人から20ドルももらったのは初めてだったのだろう。アリソンは「細かいお金がなかったので20ドルを入れたけれど、彼の笑顔を見たら十分報われたわ」と笑っていた。いい人たちと知り合ったものである。



夫のレイはブリティッシュ・コロンビアにある大学の英文学の先生。初日のコンサートでたまたま横にすわったというだけで知り合いになった。旅の醍醐味は観光でも食べ物でもない。出会いである。人生もまた。


December 15, Wednesday 2010

1時間遅れで成田着。成田エキスプレス、高速バスを乗り継いで辰野へ。家に着いたのは夜中の12時過ぎ。猫たちがお腹を空かせて待っていた。

予想外のできごとがいくつかあり、慌てたが、いい旅になった。詳しくは後日。


Decmeber 14, Tuesday 2010

昨日は、アメリカ北東部が大雪のためミネアポリスへの飛行機が欠航。他の便を探したが見つからず、結局もう一日ラスベガスにとどまることに。不幸中の幸いは、これが行くときでなかったこと。

7時過ぎタクシーで空港へ。今日はスムーズに飛行機が飛んでいるようだ。各航空会社のカウンターの前もそんなんに混んでいない。ロサンゼルス経由で成田行きの飛行機に乗る。

昨日、デルの係員がかろうじて見つけてくれた成田行きの便は混んでいて、家人とぼくは離れ離れの席に。ぼくの横には、南米の父親と娘と思われる二人がすわっている。しばらくして、父親がぼくの席と妻の席を交換してくれないかという。彼女の席はずっと奥にある。「いいですよ」と席を立とうとするところに、「搭乗する予定の6人が乗っていないので、全員所定の席にもどってください」というアナウンス。すでにあちこちで席の交換や、空いている席に移ったりしていたのだ。

結局、その6人の荷物を取り出す作業に時間がかかり、1時間以上遅れて離陸。「テロ」という言葉が一瞬頭をよぎる。

飛び立ってしばらくして、シートベルト着用のサインが消えたところで、席を換えるために、手荷物をもって、はるか後ろの南米人の奥さんの席へ。彼女は満面の笑みを浮かべてお礼を言う。

ぼくが新たにすわった席の周りにはたくさんの中国人の学生たち。そのほとんどがノート型パソコンを広げている。しばらくして横の学生に話しかけた。彼の名前は谷爽(Gu Shuang)。UCI (カリフォルニア大学アーヴァイン校)の3年生。専攻はビジネス・エコノミックス。休暇で中国へ帰るところだという。彼の横にすわっている2人の中国人学生とは面識がないらしい。ということは、この飛行機に乗っている大勢の中国人学生たちはおそらく、アメリカの各地の大学で学んでいる互いに面識のない人たちなのかもしれない。

UCI には中国人の留学生が何人いるかと聞くと、500人ほどだという。その数に驚く。日本人の学生はいるかと聞くと、数十人はいると思うという。そして、その半分はアメリカで生まれた日本人だと付け加えた。中国と日本の人口の比率を考慮したとしても、今中国の若者たちの熱意、意欲に驚かされる。

マルクスやケインズやサミュエルソンの名前を誘い水に話をするが、あまり乗ってこない。話しているうちに、彼が学んでいるのは経済学ではなく、金融学に近いものだということがわかる。理論ではなく実践。おそらくそれが今中国で求められているものなのだろう。谷爽君と話ができたのも、席を換えてあげたからで、もとの席にいたら、これほど刺激的な話はできなかっただろう。

話したり、うとうとしたり、機内食を食べたりしているうちに日付変更線をこえ、いよいよ日本が近づいてきた。


December 13, Monday 2010

昨夜は夜通し、あちこと電話を入れ、代わりの飛行機を探したが真夜中ゆえなかなかスムーズに行かない。ラスベガスの空港のデルタ航空のオフィスに電話すると、デルタの本部につながり、録音で、どんな用件か聞かれ、順次、 YES か No で答えていく。そしてようやく希望の部署にたどり着くと、「混み合っているので、しばらくしてかけ直してほしい」という内容の録音。これを何度か繰り返して、ついに断念。保険会社の現地サポートは親切に応対してくれて、通常料金で火曜日に成田に着く飛行機を探してもらうということになったが、なかなか連絡がこない。こちらからかけなおすと、担当者が代っていて、メッセージは受けているとのことだが、また一から説明。

そうしているうちにすでに朝の4時に。予定通り飛行機が飛べば、5時にはチェックアウトして空港へ向かわねばならない。家人がラスベガスの空港のデルタのオフィスでなく、空港そのものに電話して、予定の飛行機が本当に欠航かどうか聞いてみたらと言う。それでフロントへ電話番号を聞きに行き、電話をする。今朝7時発ミネアポリス行きのデルタ1550便は欠航かと聞くと、その便はon schedule だという。小躍りしてよろこぶ。早速、保険会社の現地サポートに電話をし、別の便を探してもらう話をキャンセルしてもらい、5時前にチェックアウト。タクシーで空港へ。

空港は5時前だというのに、人でごった返している。いやな予感が。最初に目に入った Departure Board (出発時刻表示板)を見る。ガーン!!!  Minneapolis Delta 1550 7:00 am Canceled になっているではないか。それからの4時間のめまぐるしい動きをすべて書くには一日かかってしまいそうなので、大筋を書くと次のよう。

欠航された便の代わりを斡旋する係りがいて、そこは長蛇の列。その最後に付いて並んでいると、デルタの若い女性の係員が通る。事情を話し、何としても今日中に成田に着きたいと頼むと、パスポートを貸せといいう。家人と二人のパスポートを渡すと、彼女はカウンターの中に消え、しばらくして2枚の搭乗券をもって戻ってきた。よく見ると、今日欠航になった便の明日の便である。

「これでは困る。明日中に日本に帰りたいし、明日まで待つとしても、ミネアポリス経由では、また雪で欠航になりかねない」と押し問答をしていると、彼女は怒りだし、けんもほろろに「もうおまえとは話したくない」といって、後ろを向いてしまう。確かに苦情が殺到して混乱していたとしても、それはないんじゃない?と思いつつも、ここで時間をつぶしている暇はない。

Departure Board を見ると、United にロサンジェルス行きのフライトがあった。あわててユナイティドのカウンターへ行き、ロサンゼルス行きの、そしてロサンゼルスから成田行きの席があるか聞く。あるという。ナンシーというその係員は親切で、てきぱきと対応し、デルタがトランスファーの許可を出せば、無料で乗り換えられると話してくれる。それで再び、かなり離れたごったがえしているデルタのカウンターへ走る。

先ほどの若い女性の係員も目に入ったが、カウンターの中にいる年配の男性の職員を呼び止め、トランスファーの許可を出してくれるかと聞く。即座に No! 「欠航の理由が天候の場合は、トランスファーの許可は出せない」と付け加える。次からは絶対にデルタには乗らないぞと思いながら、再びユナイティドのカウンターへ走る。ナンシーを見つけ、トランスファー不可の旨を告げ、通常料金でお願いすることに。ナンシーは、通常料金はかなり高額なので、この額を見たら一日遅らせる気になるかもしれないといいながら、その額を提示する。二人で30万円をはるかに超える額。片道でも、往復の格安航空券の倍以上。背に腹は変えられないと、それでお願いすることに。スーツケースをチェックインし、搭乗券をもらう。

そのとき家人が旅行保険には、このような場合、ある程度保障があるはずだから、欠航証明書が必要と言う。再びデルタのカウンターへ。先ず、 Departure Board の写真を撮り、デルタのさっきの係員とは違う女性の係員に、欠航証明書が欲しい旨話す。幸運なことに、彼女は日本人の係員を連れてきてくれた。その Katsumi さんという名の係員に事情を話すと、彼女は権威のありそうな上司をつれてきた事情を話してくれた。その上司はトランスファーを出すと言う。先ほど、 No と言った係員が後ろから文句を言ったが、その上司はまったく問題にせず、No problem! と言う。ここでデルタに対する信頼が少し回復する。

さてここから、また話が、ややこしくなる。「大筋を書く」と言いながら、書いているうちに、いろいろ思い出して、かなり詳しくなってしまった。このまま書き続けることに。

そのジェイムズという名の上司が、コンピュータを眺めていたと思ったら、ラスベガスからロサンゼルスまではユナイティドで、ロサンゼルスから成田までは、デルタで行けると言い出す。そして、ユナイティドにその旨話に行くようにという。そこでまたユナイティドのカウンターへ走る。距離は30メートルはある。ユナイティドのナンシーは他のお客さんの応対をしていて、別の若い女性に話をする。彼女はデルタのジェイムズに電話をかけて詳しいことを聞こうとするが、通じない。彼女はジェイムズと話してくると言って、デルタのカウンターへ。

しばらくして彼女が戻ってきた。そして、突然「ラスベガスからロサンゼルスまでのユナイティドのチケットもキャンセルしたので、あとはデルタへ言って話すように」と言う。「えっ、それは困る。もうスーツケースも預けてしまったので」と言うと、「どんなスーツケース?」と言う。「白いメタルのボディの・・」と言いかけると、彼女は中に入り、すぐにそのスーツケースをもって出てきた。再び、スーツケースを転がしながらデルタのカウンターへ。

ジェームズにユナイティドで言われたことを話す。意外なことに、「アメリカン・エアラインズへ急いでいって、ロサンゼルスまでの航空券を買うように」と言う。そして「まだ3席残っているはず」と付け加える。人混み縫ってスーツケースを転がしながら、アメリカン・エアラインズのカウンターへ走る。アメリカン・エアラインズのカウンターは空港の一番端にあり、デルタからは50メートルは離れている。汗だくになって到着。カウンターの中に女性の係員が二人。カウンターの外には誰もいない。もうすべて搭乗手続きは済んでしまっているようだ。9時発のロサンゼルス行きのチケットを2枚ほしいと告げると、二人のうちの一人が、無表情に「もうありません。午後の便ならある」と言う。デルタのカウンターであると言われてきたと、くい下がるが、「ありません」の一点張り。午後の便では、成田へ行く飛行機に乗り継げない。

再度、デルタのカウンターへ。ジェームズにアメリカン・エアラインズで言われたことを告げる。結局ここで今日中にラスベガスを出ることを諦める。ジェームズが、明日のロサンゼルス経由成田行きの搭乗券を用意してくれた。ミネアポリス経由でないだけでも、ありがたい。ミネアポリス経由だと、明日の朝も飛行機が飛ばない可能性がある。欠航証明書も欲しいというと、気楽にタイプしてくれた。

今朝、シーザーズパレスをチェックアウトしたときに、予定のフライトが欠航になった場合にはもう一晩泊まりたい旨伝えておいてよかった。シャトルバスでホテルに戻る。

ホテルの部屋は同じローマン・タワーという塔の中の違う部屋。こっちのほうが前の部屋より少し豪華。昨夜は一睡もできなかった上に、朝早くから航空券を探して走り回ったので、かなり疲れていた。しかし、ここで眠ってしまっては一日中眠ってしまいもったいない。少し休んで、外に出て早いお昼を食べることに。朝飯もほとんど食べていなかったし。

昨日きた The Ventian の中のイタリア料理店で、パスタのセットメニューを注文する。これがおいしかった。イタリアで食べたものよりおいしかったような。そのレストランは2階にあって、窓の下を眺めれば、運河が流れ、ゴンドラが浮かび、カンツォーネ歌手が「サンタルチア」を歌っている。上を見れば、にせものの空が美しい。このレストランのトイレは今までに見たどのトイレよりもクラシックで豪華。自称「トイレ研究家」としては写真を撮らなかったことが悔やまれる。レイが、ラスベガスで驚いたことはいたるところに大理石が使われていることだ、と言っていたが、本当にいたるところに大理石が使われている。もちろんトイレにも。大理石風壁紙を貼り付けてあるのとはわけが違う。

お昼を食べてから、Venitianの中のショッピング街をうろつき、買い物を少し。Harley-Davidson のグッズの店に入ったら、ぼくがよくかぶる和帽子と同じ帽子があった。額の部分にはHarley-Davidson と書かれている。雨の中、辰野から佐久まで大型バイクを飛ばして、小学校のときの先生に会いに行った「ちょいワル爺さん」に喜んでもらえそうな帽子。

しかし、和帽子とのことで買ったぼくの帽子と同じものが、どうしてラスベガスのオートバイグッズの店にあったのだろうか。

こうしてぶらぶらラスベガスを歩いているとラスベガスに対して抱いていた印象がだいぶ変わってきた。とにかくエンターテイメントに徹している。住民のツアー客サービスは「完璧」。「何とかデスティネーション・キャンペーン」と100回繰り返さなくても、各自がツアー客に対して最高のもてなしを用意している。来る前から聞いていたが、ホテルの部屋代もレストランでの食事も、reasonable である。例えば、追加した今日のホテル代は、二人で99ドル。日本円にして8500円ほど。日本でこのクラスの部屋に泊まったら、おそらく3万円はするだろう。食事にしても、今日食べたイタリア料理は22ドル。1850円ぐらい。こんな豪華なイタリア料理を日本で食べたことがないので、比較出来ないが、おそらく、1万円近いのではないか。

そして何よりも、何でもありのこの町は、明るい。賭博も売春も、やるかやらないかは自分の責任。隠れてコソコソして、見つかって、必要以上に大きなニュースになる社会とは違う。

だからといって、この町に住みたいとは思わない。ここは休暇を楽しむための町。住む町ではない。明朝は無事この町を出たいもの。

午後、日本時間が午前9時になるのを待って、信大の英語担当事務局に電話。しかし何度電話してもつながらない。マーク・Bのケイタイにかけてみたら繋がった。木曜日のクラスを休講したい旨、事務局に伝えてほしいと頼む。水曜日の夜中に家に戻り、木曜日に授業をし、金曜日にマンダラ2というのはどう考えても無理。

買い物を終え、シーザーズパレスに向かって歩く。近づくとレナード・コーエンのコンサートのあったコロシアムが見えてきた。感動の連続だった二晩の思い出がよみがえる。経済的に、そして時間的に少々無理をしてやってきた。でも、きてよかった。家人も、今までレナード・コーエンの音楽にそれほど関心がなかったが、実際に生のコンサートを見て、多くを感じたようである。今回のツアーは、彼女が12年務めた民生委員の任期が11月末で終了したことの「お祝い」ツアーでもあった。偶然にもレイとアリソンに出会い、おかげで、グランドキャニオンをはじめ、いろいろなところに案内してもらった。家人のためには、コーエンのコンサートだけではない旅になってよかった。ぼくだけだったら、レナード・コーエンだけで十分だったが。


December 12, Sunday 2010

朝、レイから電話があって、お昼を食べに行こうと誘われる。シーザーズパレスを出て近くのホテルでビュッフェ形式のお昼。これがなかなか美味しかった。値段も手ごろ。途中、美術館のようなところがあり、そこに彫刻があった。リチャード・マクドナルドという著名な彫刻家の作品とのこと。Cirque du Soleil (シルク・ドゥ・ソレイユ)というカナダの「曲芸団」のパフォーマンスがモデルだとレイが言う。

それを聞いて思い出した、ソニーの栗原さんからラスベガスへ行ったらビートルズの歌をもとにしたシルク・ドゥ・ソレイユのLove というショーを見てきたらいいといわれ、調べたら、残念ながら、12月前半、Loveの公演はお休みだった。レイにその話をすると、Cirque du Soleil の異なる公演がラスベガスの6つのホテルで同時に行われていて、今夜、彼らはそのうちのひとつ Mystere をTreasure Island というホテルへ見に行くことになっているとのこと。早速、連れて行ってもらうことに。

午後は、彼らに勧められた The Venitian というホテルを家人と見に行く。度肝を抜かれるようなホテルだ。ホテルの中に運河が流れ、ゴンドラが浮かび、ベニスの町が再現されている。最初本物だと思っていた空まで作られている。どのホテルにもカジノがあり、ショーのできるホールがあり、そしてショッピング・ストリートがある。しかし、ぼくが見た限りでは、このザ・ヴェニシアンは別格だ。

Cirque du Soleil は日本語では「太陽のサーカス」。夜7時から見た Mystere はまさにサーカスそのもの。アクロバット。写真撮影禁止とのことで、ショーが終わってからかろうじて一枚撮る。レイとアリソンは9時から始まるもうひとつのショーを見ることになっていて、そこで別れて、シーザーズ・パレスへ戻ることに。途中 the Mirage というホテルに LOVE のパブリシティ。9時に、ホテル・ミラージュ(蜃気楼)の庭で火山が噴火するとのことで人だかりができていた。たいした噴火ではなかったが、それでもかなり離れていても火の熱さを感じるほど高く燃え上がった。







ホテルに戻り、せっかく来たのだからと、スロットマシーンをやることに。42年前の夏、イレインのお母さんの運転手としてラスベガスにきたとき、スロットマシーンをしたことがある。25セント硬貨を入れ、レバーを引くという単純なものだった。幸運にもそのときはジャックポットを当て、25セント硬貨100枚がジャラジャラと出てきて驚いた。今目の前にあるスロットマシーンはIC制御のゲームマシーン。1ドル紙幣を入れると1回プレイができる。5ドルで5回。ふたりであっという間に10ドルが消え、ゲームオーバー。その間、わずか20秒?

その後、部屋に戻り、テレビをつけたら、大雪でミネアポリスのドーム球場の屋根が落ちたというニュースが流れてきた。そして、ミネアポリス空港の多くのフライトがキャンセルされたとの報道。心配になってきた。ひょっとしたら明日の朝のミネアポリス行きの飛行機は飛ばないのではないかと。

旅行保険の現地サポートに電話を入れて調べてもらったところ、やはり明朝午前7時発のミネアポリス行きのフライトはすでにキャンセルされているとのこと。困った。どうしよう。


December 11, Saturday 2010

昨夜コンサートで隣り合わせになったカナダ人夫妻からコンサート終了後、明日レンタカーでグランドキャニオンへ行くが一緒にいかないかと誘われる。実はわれわれもホテルから出発する観光バスに乗って見に行こうかと思っていたが、往復13時間かかると知り諦めていた。レイとアリソンの車に乗せてもらうことに。朝8時、ホテル内にある Hurst レンタカー・オフィスの前で会い、出発。

途中フーバーダムを見学。フーバーダムが建設されたのが1931年、ウディ・ガスリー
が後年雇われて歌を書いたグランド・クーリー・ダムは1933年に建設されている。巨大なダムである。

高所恐怖症(acrophobia)のぼくにはダムもグランドキャニオンも鬼門である。それでも怖い物見たさで、スカイウォークなるものにも挑戦してみた。馬の蹄鉄のような形の橋である。床がガラス張りになっている。今、これを書いていても身体がゾクゾクする。ガラスの床の下は1200メートルの谷。次のURLでその様子を見ることができる。(Click and you will experience the skywalk in Grand Canyon)
http://www.grandcanyonskywalk.com/

帰路、砂漠に落ちる夕日の美しさを堪能し、何もない砂漠から、ネオン瞬く狂乱のラスベガスの夜景の中に帰ってきた。ホテルに入ったのは夜の7時。






いったん部屋に戻り、シャワーを浴び、コロシアムへ。レイとアリソンは今夜のコンサートへ行く予定はなかったが、町のチケット売り場でチケットを見つけ今夜も行くことに。8時15分に始まり、終わったのは真夜中の12時過ぎ。日本ではちょっと考えられない。10年ほど前、マディソン・スクエアー・ガーデンでディランとポール・サイモンのジョイントを見たときも、最後は12時を過ぎていた。野球でも、日本は延長12回で引き分けだが、アメリカでは結着がつくまで、延々とやり続ける。

今夜はバルコニーの最上階。チケットは75ドル。昨夜のは250ドル。確かに昨夜は近くで見ることができてよかったが、今夜の席も遜色ない。先ず何といってもサウンドがいい。それに、最上階から下を見下ろすので、ステージ全体を眺めることができる。ステージがペルシャ絨毯で覆われていることを初めて知った。またドラマーのラファエル・バーナード・ガヨールとキーボードのニール・ラーセンは、今までは首から上しか見えなかったが、今夜はすべてを見ることができる。もって行った双眼鏡は一度使ったが、特に必要なかった。ステージの両サイドにはスクリーンもあって、コーエンや他のミュージシャンのアップの映像を見ることができる。





3年にわたる250回以上のコンサートの最後とあって、出演者も聴衆も熱が入る。すばらしいコンサートだった。Live in London に入っていない Chelsea Hotel #2, Waiting for the Miracle, Famous Blue Riancoat は特に素晴らしかった。残念だったのは Heart with No Comapnion がなかったこと。きっと歌うだろうと思っていたのだが。家人は、ここ1ヶ月、急遽 Live in London を繰り返し見、英詩と対訳を読み、宿題を済ませてきた。お気に入りは Anthem そして If It Be Your Will のようである。もちろんこの2曲はぼくも大好きだ。

前半最後の曲 Anthem のあとのバンドメンバー紹介は、LIve in London のときの紹介にもまして素晴らしかった。 特に、ドラマーの ラファエル・バーナード・ガヨールの紹介は一番長く、一番面白かった。最初のほうで、彼を紹介する言葉に「偉大なドラマーがみんなそうであるように、彼は sculptor of silence だ」というところがあった。ドキッとした。「沈黙の彫刻家」。そうなんだ、重要なのは音ではなく、音と音の間の沈黙なのだ。

2日とも同じような紹介だったが、次のURLは最終コンサートのもの。(Leonard introduced the musicians and it was pure poetry.)
http://www.youtube.com/watch?v=oXCk7kI-NPw

今夜のコンサートで特筆すべきは、インターミッションの間にステージ前に陣取った熱狂的なファンが Passing Through のコーラスを大声だ合唱し始めたこと。


  
Passing through, passing through.
  Sometimes happy, sometimes blue,
  glad that I ran into you.
  Tell the people that you saw me passing through.

後半の最初の曲 Tower of Song を歌うために登場したコーエンも、その一節を口ずさんだ。

最後は、昨夜以上に裏方のスタッフ全員をステージに呼びいれ、最後の挨拶。感動的なフィナーレ。その様子は次のURLから。

http://www.youtube.com/watch?v=iP1nAr1m5bw

12月11日(土)のセットリストは



December 10, Friday 2010

成田発午後3時10分発の飛行機に乗るために、新宿から山手線で日暮里まで行き、京成スカイライナーに乗る。このほうが時間的に都合がいい。出発2時間半ほど前に第一ターミナルに着き、まず Eチケットをコンピュータで搭乗券に換える作業。これがやっかい。係りの人に手伝ってもらって、なんとか完了。

ミネアポリス・セントポールの空港に着いたのが12月10日の午前11時ごろ。11時間以上飛行機に乗っていたはずだが、時差の関係で、出発したときよりも早い時間。曇り空、一面の雪景色。この町はディランが半年通ったミネソタ大学のある町。「北国の少女」で歌われている冬の寒さが実感される。日本を出る前、ミネアポリスからラスベガスへ行く飛行機が雪で飛ばないことを心配したが、その心配はなさそうだ。

入国手続きはミネアポリス・セントポール空港。事前に、オンラインで、ESTA(電子渡航認証システム)に申請し、認証を受けているので極めて簡単、昔のように入国手続きのための用紙に記入し提出する必要もない。係官が、お決まりのWhat's the purpose of your visit? と聞く。昨年サンフランシスコの空港で答えたように、We came to see the Leonard Cohen's concert in Las Vegas. と答えた。昨年の係官は、「レナード・コーエンの音楽は好きじゃない。暗すぎる」と答えたが、今年の係官は、「知らないね。Leonard Coin?」と聞き返す。「Not Coin. Cohen.」と言っても、「I don't know Leonard Coin」と繰り返す。

2時30分過ぎ、ミネアポリスからラスベガスのマッカラン国際空港へに向かって離陸。ネバダ州に近づくにつれて茶色い荒涼とした景色が広がってくる。ラスベガス着、午後4時半。




手続きが終わり外に出たときには、すでに薄暗くなりかけていた。シャトルバスでシーザーズパレスへ。シャトルバス代一人6ドル。シーザーズパレスにチェックインをし、部屋に入ったあと、すぐに今夜のレナード・コーエンのコンサート会場のコロシアムへ。コロシアムはホテルと一続きで外に出る必要がない。人と音でごったがえすカジノのある広い部屋を通り抜けて、ボックスオフィスへ。Will Call というオンラインでチケットを予約し、会場で受け取るシステム。Eチケットによる航空券の購入といい、 Will Call によるコンサート・チケットといい、これからはこのような形が主流になっていくだろう。




いったん部屋に戻り、少し休んだあと、午後7時、Beijing Noodle No. 9 でチャーハンとスペアリブの酢豚で夕食をとり、7時40分、コロシアムへ。もう多くの人たちが集まっている。先ず、入り口を入ったところで販売しているグッズを覗いてみる。プログラムなど、いくつか購入し、会場へ。

案内係の人にチケットを見せ、中に入る。意外や意外。どんどんとステージに近づいていく。そして彼女が案内してくれた席は何と前から3列目。ステージに向かって左側の席。すでにわれわれの席の横にはふたりの人がすわっている。とりあえず挨拶をし、名前を名乗りあう。カナダはブリティッシュ・コロンビアからきたレイとアリスン。

コンサートが始まる。レナード・コーエンはスキップしてステージに登場。しかし3列目の横からだと、はからずも、彼の「老い」がよく見て取れる。少し痩せて、背も去年より少し曲がったような。しかし、演奏が始まり、シャロン・ロビンソンとウエブ・シスターズの La la, la la la la, la la....のコーラスが終わり、彼が Dance me to your beauty with a burning violin/ Dance me through the panic till I'm gathered in...と歌い始めると、そこにはもう年齢を超越した一人のシンガーが立っている。

途中、彼はこの3年間のワールドツアーを振り返り「このツアーを私たちが始めたとき、私はクレイジーな夢をもった73歳の子供でした」と語って聴衆を沸かせた。これは Live in London の中で、「前回、ロンドンのステージに立ってから長い時が経ちました。およそ14、5年前のことで、私は60歳の、クレイジーな夢をもった子供でした」と言ったことばを援用したもの。

われわれのすわった位置からはウエブシスターズがすぐ目の前にいる。彼女たちが歌うときの口の形がよく見える。参考になった。それに例の側転もすぐ目の前で。

Live in LondonSongs from the Road に入っていない曲は2曲。新曲 The Darkness と5枚目のアルバム New Skin for the Old Ceremony から A Singer Must Die。

アンコールの最後の曲 I Tried to Leave You が終わると、スタッフもステージに呼びいれ、最後の挨拶。

このコンサートの模様は次のURL ですべて聞くことができる。(Click the following URLs. You can listen to the whole concert.)

http://www.francesfarmersrevenge.com/cohen/1.mp3
http://www.francesfarmersrevenge.com/cohen/2.mp3
http://www.francesfarmersrevenge.com/cohen/3.mp3
http://www.francesfarmersrevenge.com/cohen/4.mp3

12月10日(金)のセットリストは


December 9, Thursday 2010


今朝も、うっすらと地面には雪。本格的な冬。

午後2コマのクラス。両方のクラスとも、今日は「イマジン」を歌い、レノンが亡くなる数日前に応じたインタビューについての記事を読む。彼がスプリングスティーンについて心配していたところがあって、面白いと思った。

He also predicted that Bruce Springsteen, then hailed as rock's bright future, would endure the same critical barbs: "And God help Bruce Springsteen when they decide he's no longer God. ... They'll turn on him, and I hope he survives it."
彼(レノン)はまた、当時「ロックの明るい未来」と賞賛されていたブルース・スプリングスティーンも、批評家たちから辛らつな批評を受けることになるだろうと予言した。「そして批評家たちが彼はもはや神ではないと思うようになり、彼を攻撃しはじめるときに、神の加護が彼にありますように。彼がそれに負けず、生き延びてくれたらいいのだが」。

レノンのスプリングスティーンへの言葉が温かい。

オーリアッド。ジブランの会。そして守屋先生が、ダニエル・ジリッグへのメッセージが再度欲しいとのことで立ち寄ってくれた。互いの今後の旅の四方山話。今夜は早めにお店を閉め、家に帰ることに。


December 8, Wednesday 2010

寒い日。朝起きて外を見るとうっすらと雪が積もっている。大雪でなくてよかった。



本日発売、スプリングスティーンの『闇に吠える街〜The Promise:The Darkness On The Edge Of Town Story』
。売れているようである。amazon.com では、三部門で1位。amazon.co.jp では、予約の段階で在庫がなくなり、いつ入荷するかわからないとのことで、しばらく予約の受付を停止していた。先ほど見たら、12月10日に入荷予定と書かれていた。ポピュラー・ロック部門1位。

CD3枚とDVD3枚。特に、若かったころのスプリングスティーンの映像はすごい。フォークでもロックでもフォークロックでもない。まさにロックンロール。Rockin' Daddy of the USA.。ブックレット今まで見たこともない言葉では表現できない凝ったつくり。詳しくは:

http://everock.blog84.fc2.com/blog-entry-139.html
http://www.sonymusic.co.jp/Music/International/Special/BruceSpringsteen/

ジョン・レノンが亡くなってから30年。ぼくが35歳のとき。30年経っても、これほどに懐古され続ける人はそう多くはない。

オーリアッド。原田さんと一局。完敗。最近負けがこんでいる。


December 7, Tuesday 2010

4講時が終わって、事務局へオーディオ・キャビネットのキーを返しにいくと、「今度松本でコンサートをやるんですね」と事務の方が言う。「どうして知っているんですか」と聞くと、「今朝、新聞にチラシが入っていました」とのこと。着々と準備が進んでいるようだ。

そこで、急遽思いついて、オープン間近のライブハウス Just を訪ねることに。南松本の中華料理店の3階にあると聞いていたので、丁度いい。今夜は家人が留守で、どこかで食事をしていこうと思っていた。

食事をしたあと、3階へ。何人かの人たちが開店に向けて忙しそうに働いている。最初の印象は、思っていたより広くないというもの。上條さんが出てきて、音響担当の遠藤さんに紹介される。音響も照明もオーリアッドよりずっといい。ステージの白い壁がスクリーンになっていて、プロジェクターでコンサートの映像が映されている。大塚まさじさんだ。(オーリアッドにも欲しいな。プロジェクター。)スピーカーは大きなエレクトロヴォイス。客席のテーブルと椅子はかなり大きく、客席のスペースがかなりとられている。しかし Just は「ライブ & ダイニング」とのこと。ゆっくり食事をするにはこのぐらいの大きさは必要かも。

電話がかかってきたり、他にも訪問客もあったりで、早々においとますることに。次回くるのは G3s(じーさんず)のコンサートの前日。三人で打ち合わせ。コンサートは12月22日(水)。さてどんなコンサートになるか。


December 6, Monday 2010

朝から、昨日書き始めた歌を完成しようとパソコンに向かう。昨夜寝ながら読んだ If You Can Talk, You Can Write (Warner Books) という本が、役に立った。UCLAの作家養成コース (Writers' Program) で長年教えた Joel Saltzman の本。

彼の言わんとすることは簡単である。1.話すように書け。2.毎日、書けるときはいつでも書け。それができないのは、3つの P のせい。1.Perfectionism(完璧主義), 2. Paralysis(麻痺状態), 3. Procrastination(引き延ばし)。書けない原因の3つの P の元凶は、最初の完璧主義。書き始めたときから完璧を目指すから、麻痺状態に陥り、ぐずぐずと引き延ばして、何も書けなくなってしまう。

彼は言う、文法も句読点も気にしないで、とにかく書く。気のおけない友人と話しているように、頭に浮かんだことを書く。そして、あとで、木の塊から彫刻を掘り出すように、不要なものを削っていけばいいと。

なーんだ。一頃、ぼくもこのやり方で歌を書いていた。「純ちゃん」「碌山」「カムサハムニダ、イ・スヒョン」などはそうやってできた歌。ところが最近は、最初から完璧を目指すようになったから、先に進めなかった。1つか2つのヴァースを書いて二進も三進もいかなくなっていた。

未完成の歌の後半はザルツマン先生の忠告にしたがって書いてみた。後先を考えず、とにかく、情景を思い浮かべながら書き続け、あとから、大幅に削ったり、ヴァースの順番を変えたりしたのである。頭の中の想いやイメージがすべて書けたわけではない。しかし、曲がりなりにも1曲完成した。そして、それはそれほど悪くない。レナード・コーエンに捧げる歌。

夜、明日のクラスの準備。大変なことに学生のエッセイの添削。これは疲れる。疲れるが、明日までに添削して、返さないといけない。このクラスは来週は休講になり、冬休み前、最後のクラスでプリゼンテーションをしてもらう予定。


December 5, Sunday 2010

年に一度の同姓の会。11時にパークホテルへ行き、先ず温泉に入り、12時から会食。四方山話。近くに住んでいても久しぶりに会う人もいる。梅酒、お神酒、ビール、焼酎と、少々飲みすぎた。そのせいか、帰りの車の中で、蚊文症がひどくなっているのに気づいた。あるいは、連日の寝不足、それに降圧剤を2日間のむのを忘れていたせいかも。

3時過ぎに家に戻り、すこし休んでから、昨日の未完成の歌を完成しようとがんばったが、うーん、難しい。まだ未完成。ギターを弾きながら、歌詞を完成しようとしたのだが、弦を押さえると、左の小指の関節が痛む。困った。リュウマチ?

7時半から、家人と「坂の上の雲」を見る。ふたりとも半分以上眠っていたような。

今晩ははやく寝ることにしよう。



December 4, Saturday 2010

オーリアッドへでかける直前、松本の上條俊一郎さんから電話。12月11日にオープンするライブハウスについて話しに来たいとのこと。

トップバッターをダニエル・ピアースさんにお願いする。ピアノのインプロヴァイゼイション。2曲。次にぼくが「バード・オン・ザ・ワイヤー」。そして、今日の午後書き始めたまだタイトルのない未完成の新曲。「バード・オン・ザ・ワイヤー」を歌ったら、どうしても歌いたくなった。レナード・コーエンとの出会いを歌った歌。最後の部分は歌いながら、なんとかまとめる。いい歌になりそうな予感。最後に Heart with No Direction。

次に原田和恵さん、シューマンのピアノ曲から入り、ぼくの好きな「そばにいるよ」と「君は愛されるために生まれた」。守屋武さんのトーク、クリスマス休暇にダニエル・ジリッグに会いにオーストラリアへ行くとのこと。オーリアッドのオープンマイク出演者のメッセージを撮影したビデオレターを届けたいとのこと。ダニエルの笑顔が眼に浮かぶ。

再びダニエル・ピアースさん。ピアノの即興演奏、2曲。そして、ぼくが「ハレルヤ」と「祈りの歌」。前者は守屋さんのリクエスト。この歌は難しい。感情移入ができない。ここで休憩。








女性ジャズヴォーカル数曲の休憩のあと、後半。トップは赤羽真理さん。「鹿のように」「旅人の木」「千両梨の実」、そして「今すぐに」。次に鈴木良さんのトーク。「風に吹かれて」というラーメン屋さんから、今年4月高校教員に転身した人。8年前、ぼくの「アメリカ大衆文化」のクラスにいたとのことで、ぼくは忘れていたが、「カムサハヌニダ・イ・スヒョン」のCDをスヒョン君の両親に届けにいくために、授業を休講したらしい。8月に結婚し、奥さんと一緒にやってきてくれた。

原田さん、鈴木さんの結婚の話を聞き、出会いの不思議を歌った「糸」、そして英語の歌のあと、クリスマスの歌「神の御子は今宵しも」(O Come AllYe Faithfu)l。このクリスマス・キャロルはぼくも昔よく歌ったもの。

ここで早くからお見えになっていた上條俊一郎さんに、新しくできるライブハウスについて話してもらう。名前は「Just」で、南松本駅のすぐ近くのダンダンプラザビル西3Fにあり、12月11日(土)のオープン。その日には、水越けいこさんのコンサートが予定されていて、12日(日)には「松本フォークジャンボリーと称する、なぎら健壱・中川イサト・斉藤哲夫三人衆のコンサートもある。ぼくも12月22日(水)六平さんと加奈崎さんとの G3s で出演予定。オープンステージ(aka オープンマイク = 飛び入りライブ)もある。今の時勢、ライブハウスの経営は難しいと思うが、がんばってほしいもの。

丸山俊治さん、今夜行ってきたジャズのコンサートの話のあと、「さあ今から」「心の鏡」、そして「白雪先生」。垣内彰さんのトーク、彼が実行委員長をしている荒神山のイルミネーションの話と、18日に辰野美術館で開かれるフルート・コンサートのパブリシティ。いつ会ってもセキギョク的。見習わなければ。

ここで再度ダニエルのピアノ即興演奏。誰かにジャンベを叩いてほしいとのことで、丸山さんが、「私がやりましょう」と名乗り出てくれた。ジャンベが入って、ますますリズミカルに。大月高志さん、「カノン」と「サイレント・ジェラシー」。後者はX-Japan のヨシキ作とのこと。曲のよさもさることながら、今夜の大月さんの演奏は実に素晴らしかった。ピアニストの本領発揮。

最後に、鈴木さんのリクエストでぼくが「カムサハムニダ、イ・スヒョン」を歌って、本日のオープンマイク終了。思いがけない方々にも会うことのできて、楽しいオープンマイクになった。

12月10日11日、そして12月17日18日とオーリアッド臨時休業のため、次のオープンマイクは12月25日(土)です。なんと、まさにクリスマス当日。The more, the merrier! ふるってご参加ください。


December 3, Friday 2010

朝起きると雨。音もなく静かに落ちている。気温もそれほど低くない。白樺やモミジの枝に露がたまり、宝石のように美しい。左手に傘をもち、カメラがぬれないように注意して撮る。

「写真上・右、コガキ(小柿)の枝の向こうに、雲が垂れ込めた王城山。左下、赤いモミジの葉がすっかり落ちて赤い絨毯のよう。その右は、ブルーベリーの葉。ブルーべリーの葉がこんなにきれいな赤になるとは知らなかった。最後は、2階の仕事場に戻るとき気づいて、階段の踊り場で息をのみながら撮った写真。久しぶりに虹を見た。





午後、新曲のアイディアがわき、書き留める。年末ライブまでに完成すればいいが。

6時から、オーリアッド。何人かの珍しいお客さん。甘酒が出る。田中先生が、同僚の女の先生と一緒に。彼女もピアニストとのことで、1曲弾いてもらう。イタリア映画の主題歌「ひまわり」。田中先生も「砂山」など童謡を何曲か。「お経の歌」のリクエストをされたが、「バード・オン・ザ・ワイヤー」を聞いてもらう。

昨年公民館分館長だった写真家の垣内さんが、オーリアッドの壁に貼ってある青大将が小鳥の巣箱から顔を出している写真を見て、「これはいい」と誉めてくれた。県のコンクールに出したらどうかと言われる。出すだけ出しても面白いかも。

11時過ぎ、外に出ると雨に白いものが混じっている。いよいよ雪になるか。スタッドレスに換えたほうが良さそうだ。



December 2, Thusday 2010

山麓線から見る北アルプスの美しさは、今朝も、格別だった。昨夜のサロンで、小松舎人先生が「彫刻とは何ですか」と尋ねたとき、瀬戸団治さんが「彫刻とは山だ」と答えたというところが印象に残った。

同じ意味ではないかもしれないが、碌山も、北アルプスから大きな影響を受けたと述懐している。

  
私はいわゆる日本のアルプス山麓に成長したものである。
  富士の秀峰の美をば私もこれを認めるけれども、
  私の精神を動かし得るものは乗鞍、槍ヶ岳のゴソゴソした山である
                           (『彫刻真髄』より)

とにかく週2回の山麓線の旅は飽きることがない。

3講時終了のベルが鳴ったあと、ふたりの学生が近寄ってきて、「今日歌った歌は誰の歌ですか」と聞く。ふたりとも感激した面持ち。「ボブ・ディランだよ」。歌う前に歌詞を説明し、音源を聞いたが、誰の歌か言うのを忘れていたかもしれない。Mr. Tambourine Man。

7時過ぎ、オーリアッド。家人と交替。この町に住む英国王立園芸協会員のガードナーがウォーキングの途中に寄ってくれた。イタリア、スペイン、イギリスを放浪したときの話や、西洋の庭と日本の庭の違い、自然観の違いなど、興味深い話を聞かせてもらった。

遅くに丸山さん。歌声喫茶の帰りとか。「ゴンドラの唄」が入っている『心の食卓』というCDを聞かせてもらう。藤田恵美というシンガーのCDである。「酒と涙と男と女」も入っていて驚いた。

さてこれか12月17日の年末ライブに向けて準備しなければ。


December 1, Wednesday 2010

朗読グループ「ひびき」主催による第3回蛍サロン。小松舎人さんのお話の前に、赤羽やよいさんが瀬戸団治さんの野外彫刻の写真を映し、解説する。辰野町の公共施設に建てられている彫刻。格調高い作品ばかり。

そのあと、小松先生のお話。先ず、なぜ辰野町には多くの芸術家が輩出したかというお話。優れた作品に接する機会があったことと、芸術家を大切にする地域性があったからとのこと。確かに、竜東(りゅうとう)と呼ばれる天竜川の東側には中川紀元さん、瀬戸団治さんをはじめ優れた芸術家がたくさん出ている。ところが最近は、芸術よりも経済中心になっていると話されたあと、 瀬戸団治さんの謦咳に接してこられた小松先生ならではの興味深いお話の数々。共感するところが多かった。

先生のお話のあと、池上武子さんが瀬戸団治さんのエッセイの朗読。日展初入選の喜びを語った文章。辰野から、「汽車賃のかからない末っ子の剛を連れて」上京するくだりは面白い。この朗読によっても瀬戸団治さんの人柄など多くを知ることができた。







休憩を挟んで、ぼくが「その人がこの町に嫁いできた頃」など辰野町の地名が出てくる歌を数曲。最後の「旅立つおまえに」を歌い終わると、「アンコール」の叫び声。粟津原さんだ。急遽ステージに上ってもらって、「果樹園の道」を一緒に歌うことに。突然のことで歌詞カードもなく、韓国語の部分は彼女に歌ってもらう。歌の途中でキーが高すぎると感じたが、そのまま続ける。案の定、最後は二人とも声が出なかったが、なんとか終了。粟津原さんにはいつも元気付けられる。

今夜、小松先生のお話が聞けてよかった。もう何年も前に、瀬戸団治さんのアトリエで、数ヶ月、小松先生から彫塑を教えてもらったことがある。そのときも、いろいろなお話を断片的にお聞きしたことはあったが、今日のようなまとまったお話は初めて。

上の写真の、小松先生の横に置かれている彫塑は瀬戸団治さんの「末っ子」の瀬戸剛君の作品。お父さんの顔である。すばらしい作品。瀬戸君は中学の同年生。日本芸術院賞を受賞した著名な彫刻家。吉祥寺の年末ライブには何度か顔を出してくれた。


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