第2回オーリアッドサロン 2003年8月24日


「メイヨー・クリニックでの30日間」 田中美智子さん


1.私が受けた手術は、当時日本では危険が高いということで行われていなかった。

ただいまご紹介いただきました田中美智子でございます。第2回目、始まったばかりのこの会で私のような者の話しが適しているかどうか自信がないんでございますが、私はアメリカで癌の手術の体験をいたしましたので、そこから何かお役に立つことがあればということでお引き受けいたしました。このような場は慣れておりませんので、お聞き苦しい点が数々あると思いますがご容赦いただきたいと思います。

                 

食道と胃切除の手術を受け、30日間の入院生活を送ったのは、アメリカはミネソタ州、ちょうどミシガン湖の上のほう、カナダの国境に近いところでございます。非常にまあとても冬は寒いところで、零下35度ぐらいまで下がるところでございます。そこのロチェスター市メイヨー・クリニック・メソジスト・ホスピタルという所でした。

入院生活や治療・看護体制におけることでの体験や感想といったことは、アメリカと日本の技術やシステムを含めた医療制度の違い、医療費負担の問題、そして医師や看護婦をはじめとしたスタッフ全体に関する医療資源の相違などの検討を前提として語らなければならないのかもしれません。あるいは同じアメリカでも、ニューヨーク、ロサンジェルスなどの大都市にある病院では看護内容もかなり異なるのかもしれません。また州立、郡立、私立などによっても違うと思いますが、ここではあえて、私自身が入院中に得た印象についてお話しすることにいたします。

あくまでもメイヨーというアメリカでも指折りの医療を誇る病院でのことですので、すべての医療機関がこれからお話しするような患者中心に徹しているとは、もちろん断言できませんが、ただ昔はメイヨーはお金持ちが行く病院として知られていましたが、現在はごく普通の人たちが患者のほとんどを占めています。

私の食道癌が見つかったのは、1989年、もう14年前になりますけれども、1月28日の定期検診でした。それまで10年近く、年一回の胃カメラによる検診を日本医科大学付属病院で受けていたことが、この時の早期発見に役立ったのだと思います。

まず、私がなぜメイヨー・クリニックで手術を受けることになったか、その理由を少しお話ししておきたいと思います。ちょうど告知を受けましてから1か月ぐらいの間、どこでどのような手術を受けたらいいか、散々迷ったのでございますが、私は年老いた両親の世話も致しておりましたし、他にもいろいろ抱えていまして、むしろ一人でこの際、すべてのしがらみを切り、手術を受けたほうがいいのではないかということと、最終的には、もう50年余りにわたって親戚同様のお付き合いをさせていただいているメイヨー・クリニックの岡崎春雄先生の強い勧めに従うことに致しました。

実は、先ほどのご紹介の中にもありましたけれども、私は10代の終わりに、留学というかたちでアメリカの生活を体験しております。福島英雄さんの不肖の先輩でございます。今回私がこの手術の体験で感じ得たことは、その当時の体験をふまえた上での、新たな発見、あるいは、あらためて気づいたアメリカという社会や個人が根底にもつ姿勢、ということにも通じるかもしれません。

私の受けた手術は、当時日本では危険が高いということで行われておりませんでした。どういう手術かと申しますと、ここにまだ傷が残っておりますが、首の両側を切りまして、胸を切りまして、それから今度、お腹と3か所を切りまして、それで、肺なんかを一応外に取り出しまして、食道と胃を全摘、その後、腸を、胸骨の後ろで、先生の勘で引っ張りあげて、ここに結びつける手術なんですけれども、結局ここを縫い付けるという時に、どうしてもリークの問題が起きて、当時日本では、そのリークを克服することができず、手術が行われていませんでした。今はもう機械ができまして、その機械で漏れなく縫い付けることができるので、日本でも行われていますけれども、当時はそれが一番食道癌の手術としては、いいと言われていたのですが、日本の病院ではそれを行っているところがどこもなかったんですね。それでメイヨーへ行ったわけなんです。実際には、メイヨーでの手術後に、両側リークが見つかりまして、後2回手術を追加しましたが、結果的には無事帰ってくることができたわけです。


2.手術を受けるということは一人で闘っていくこと。

1989年の2月末、単身で渡米した私は、2月27日から1週間に3回の外来での検査を受けた後、3月6日に手術をすることになりました。執刀医はドクター・ペインで、検査の結果と手術の決定について直接話されたのは3月3日金曜日でした。食道癌の手術を受けるのに、月、水、金の3回の外来での検査の後、手術前日の日曜日午後入院というのですから驚きました。

この時のエピソードがひとつあります。入院を前後して、私は岡崎先生宅にお世話になっていたのですが、先生ご夫妻は手術の前々日から5日間、アリゾナ州へ、分院がアリゾナ州にありますので、ご出張されることが決まりました。手術の時には当然岡崎先生に立ち会っていただけるものと思って私はアメリカ行きを決断したわけですから、びっくりしまして、ドクター・ペインに「その日は岡崎先生がお留守なので駄目です。延ばして下さい」と申し出たのですが、ドクター・ペインはとても不思議そうな顔をなさって、「執刀するのは私で、ドクター・オカザキではありません。なぜ彼がいないと駄目なのですか?」と言われました。

そしてこう加えられたのです。「前日5日の日曜日の午後、タクシーで来たらいいじゃないですか」。その時はものすごい吹雪だったんですね。岡崎先生の家は郊外にあったんですが、ドクター・ペインは「タクシーが入らない場合には病院に電話を下さい。除雪車つきの車を迎えに出します」とおっしゃるんですね。この時私は、一応は頷いたものの、真の意味での覚悟はまだできてなかったように思います。

                 

土曜日の朝、予定通りに岡崎先生ご夫妻がアリゾナへ出発された後、大きなお宅に2匹の猫と残されたときは、さすがに恐怖に襲われました。でもそのとき、ふと気づいたのです。そうか、手術を受けるということは、一人でタクシーで病院へ行き、一人で闘っていくことなんだ、と。50代半ばという年齢、言葉のままならない場所、病気が食道癌であるということ・・・などは、手術を受けるということには一切関係ないのだと、そう悟りが開けたのです。病気に立ち向かうのは私なんだ、という覚悟がこの時にしっかりできたようです。そうすると人間は不思議なもので、ドクター・ペインがおっしゃった「食道癌の手術は確かにメジャーな手術ですが、特別心配することは何もありません」という言葉が思い出され、「私はできる限りがんばる。後は先生方にお任せしよう」という安堵の気持ちがわいてきました。

3月6日の手術後3日間は、呼吸の乱れがひどく、集中治療室で過ごしました。集中治療室にいる間は、やはり意識が朦朧としていたようです。別に苦しいことは何もなかったのですが、時間の観念がまったくなく、3日目の水曜日が金曜日に思え、「今日は金曜日ですね」とナースに声をかけ、「そうなら明日お休みでうれしいのですけれど・・残念ながらまだ水曜日です」と言われたのを覚えています。

3月9日からは個室に移りました。メイヨー・クリニックの場合、2人部屋は少しあるだけで、あとはほとんどが個室になっています。プライバシーを尊重するという主旨に沿った充実した設備は、やはり恵まれた状況といえるのかもしれません。

ここでちょっと病室について申し上げますと、患者のために、壁にはめ込まれているクローゼットと引き出し、ベッド、床頭台、オーバーテーブル、深く腰をかけることのできる手つきの椅子、テレビなどがあります。また、ナースのために作りつけになったタイコス型血圧計、使用済みの注射器を捨てるボックス、ディスポのゴム手袋が備え付けられています。ちょうどエイズがはやり始めた頃でしたから、お医者さんも看護婦さんも治療に当られるときには、ディスポのゴム手袋をはめておりました。

血圧計にしても何にしても病室に備えてあるので、看護婦さんがそれらを抱えて廊下を行ったり来たりする姿はまったく見かけませんでした。そして今は、私のときはなかったのですが、コンピューターが廊下にLANで情報を流せるように、一定の距離をおいて全部つながってますので、そこで情報を流しています。

6階の514号室に入った私は、その当日から病室の隣にあるお手洗いに一人で行くことはもちろん、リハビリが義務づけられていました。廊下を歩くこの訓練は、最初は10分ぐらいずつ一日に5回、それから毎日量が増やされていき、距離も別棟までと延ばされました。ただ、アメリカの「切る技術」、あるいは「方法」は日本と違うのか、4日目のリハビリが始まった段階ですでに鳩尾から30センチ下の傷口は接着していてガーゼ交換も、もちろん抜糸もありませんでした。こうしたこともあって、早くから歩くことが可能だったのかもしれません。

リハビリの場所は始めから終わりまで病院の廊下でした。幅が広い上に、人の往来が少ないので、マイペースで進めることができました。外は吹雪で暗く、寒い日が多かったのですが、病院の中はいつも明るく清潔な雰囲気でした。中庭や待合室には美しい緑があふれ、心が和みました。


3.幻覚幻聴に悩まされる日々が続いた。

こうしてお話ししていると、とても順調のようですが、実際には、麻酔の後遺症から、吐き気でひどく苦しかったのです。3週間の間に3回の全身麻酔をかけられましたので、これは日本では考えられないことのようですが、とてもきつい状態でした。冬の夕暮れは本当に早く、あっと気がつくと夜になっているのですが、夜は夜で、強迫観念のような夢にうなされて眠れませんでした。

幻覚幻聴に悩まされるという日々が続きました。幻覚症状は娘がテープに吹き込んでくれたブラームスのシンフォニーを聞いていたせいか、中世ヨーロッパの宮廷内の音楽会へ行っているのです。そのサロンのシーンをはっきり覚えています。

幻覚というのは体験しないと分からないことで、よくドラッグを使った若者がどうしてあんなことになるんだろうと思うことがありますが、本当に別世界に入ることができるんですね。あの魅力は一度取り付かれたらなかなか抜け出せないと思います。

また幻聴は、一晩中、近くで誰かが日本語を話しているというものでした。本当に実感として誰かが日本語を話しているんですね。誰が話しているんだろうと一晩中気になって、翌朝岡崎先生に「この病院には他にも日本人の方が入院していらっしゃいますか」と伺ったほどです。


4.痛みや痛みに対する恐怖を一度も体験することがなかった。

このように、幻覚と幻聴に悩まされ、寝ているだけでも気分が悪いという状態なのに、ナースは容赦なく「さあ、起きて歩きましょう」と声をかけてきました。

術後しばらくは、中心静脈点滴と痛み止めのモルヒネ用の2台のポンプにつながれていたわけですが、歩行訓練にはこの2台を押していくのです。また2台のポンプの他に、お腹と首から計10本あまりの血液や汚物を外部に出すドレーンをつないでいましたから、これを全部受け皿からはずす必要があります。病室に戻れば、はずしたものをすべて元通りにしなければなりません。

この作業はお手洗いに立つとき、歩行訓練の度に自分でやりました。本当に辛いとき、「今日は気持ちが悪いのでこれで終わりにして下さい」と懇願したり、2回のところを、今日はもう3回やりましたなどとウソをついたこともありましたが、どのナースも引継ぎのメモをしっかり読んでいて、「まだ残っています、起きて下さい」といって手を引っ張られました。

どのような申し送りがあったのか分かりませんが、ナースがメモをポケットに入れていて、時々取り出してはチラッチラッと見るのです。患者についてのリポートがしっかり引き継がれていることが分かり、まあ安心することができたわけです。この患者の記録は病室の入り口のボックスに立て掛けてありますので、患者も見ることができました。

モルヒネ用のポンプは自分で押して、点滴用のほうはナースに並んで推してもらうこの頃の歩行訓練に、「歯を食いしばる」というのはこのことかと実感もひとしおでした。

モルヒネ用ポンプは、多分まだ日本では一般に使用されていないと思いますので、簡単にご説明しておきます。モルヒネを貯蔵したポンプが枕元に置かれ、そこから中心静脈へ管でモルヒネが送られます。使用時を自分で決めることができるよう、操作用コントローラーがついています。

つまり、痛みがきたら自分でボタンを押す、すると瞬時に痛みが止まります。ある一定量のモルヒネが流れると、自動的にブロックされて、ボタンを押し続けていても注入は止まりますが、数分経つとそれが解除されるという仕組みです。痛みや痛みに対する恐怖を一度も体験することがなかったのは、このおかげで何よりもありがたかったと思っています。

まあ、患者の痛みをできるだけ取り除くというのが今のアメリカの医療の非常に大事な点で、もう何でも痛い、痛いといえば、本当にどうしたら痛みをとることができるか、モルヒネがはずされた後も注射をして下さったり、しつこいくらい、「痛いか?痛いか?」と聞かれました。私のときはそういうことはなかったのですが、3年前に私の友人が入院したときには、「今の痛み、10段階で表現すると、何段階の痛みか?」と聞かれたとのことです。もう痛くないといっても、しつこいくらいに、何段階の痛みかと繰り返し聞かれたようです。そのくらい患者の痛みをとることが大事であるという認識があるのだと思います。

重要な医療器具としては、術後17日目に、中心静脈点滴に代わった、カンガルーという機械があります。まだ食事のとれない期間、栄養を補給するためのものです。ドロドロの乳製品の缶詰をコンテナの中に入れ、時間を設定し、鼻からチューブで腸に流し込みます。

最初は一日に必要なカロリーと栄養を一日がかりで少しずつ入れていくのですが、4、5日後には8時間に、すなわち夜寝ている時間だけで完了するようにスピードアップされました。起きている時間を、できるだけリハビリに当てるようにということではあるのですが、これには相当まいりました。腸はゴロゴロいうし、下痢が続くので、何度もお手洗いに行かなければならなかったのです。

「日本人は乳製品に対応する酵素が少ないので、こんなスピードにはついていけません」と私がいっても、「こちらで状態をつかんでいるから大丈夫ですよ」と聞き入れていただけず、あまりの辛さに。夜2、3時間機械を勝手に止めたこともありました。考えてみれば、その後だんだんと慣れることができたわけですから、やはり治療方針が適切だったといえるのでしょう。

丁度機械がありまして、その上のコンテナに乳製品を入れるわけですね。その管を通ってきて、設定している時間通りに、チューブから腸の中に送り込まれるわけです。速ければ速いほど、腸での処理能力が間に合わないものですから、非常に辛いんですね。不快感もありますし、もうひどい下痢で。お手洗いに立ちますと、前にも申し上げましたように、全部そのつど管をはずして、点滴をもっていくわけですから、とても辛い作業でした。

カンガルーの機械が辛いだけでなく、三度三度の食事が摂れないということは、実際に経験してみるとかなりこたえました。皆さんは三度三度の食事を召し上がっていますので、食事をできない方々の辛さがお分かりにならないと思いますが、食事ができなということは、食事をいただく大きな楽しみが奪われるというだけではなく、いつまで経っても体力がつかないようで、焦りが生じてくるんですね。そして何よりも一日のリズムがつかめないのです。一日がただのんべんだらりと過ぎ、心の落ち着きが得られません。朝食、午前の活動、昼食、午後の活動そして夕食、と長年慣れ親しんできた生活のペースを絶たれるということは、予想以上の戸惑いでした。

この機械の操作等を、退院後は自宅ですべて一人でやらなければなりませんでしたので、2日間そのための講習会がありました。何から何まで文字通り必死にメモを取り実践しました。1日目午前は機械の操作、2日目は朝からすべて自分でやります。メモを片手に作業を進めるわけですから、時間に終われどうしでした。たまたまエンジニアである弟がカリフォルニアに住んでいたんですが、電話をかけてきて、「メカに弱い姉さんには無理だよ。絶対に止めてくれ。退院を延ばせばいいのだから」と叫ばれました。もちろん、そのようにお願いしたとしても、聞いていただけるはずもありませんでした。結構覚えなければならないことが多く、当時はパソコンはもちろん、うっかりすると家電の使い方さえおぼつかない中年のおばさんにとって、自分の生命に関わるこの機械の操作を学ぶことはまさに真剣勝負だったのです。


5.日本では3か月といわれていたが、30日で退院させられた。

4月4日に退院しました。丁度30日、日本では3か月といわれていたのですが、2回の追加の手術があったにもかかわらす、30日で退院させられました。退院しましたけれども、何か毎日が忙しかったような気がします。といいますのも、まず医療面では、1日3回の検温、体重測定、薬の投与と水分の補給。これもカンガルーにつないでいますから、その途中で、管をはずし、注射器の大きなもので水とか薬を入れるのです。

それから、お腹のドレーンはその時すでにはずれていましたが、首の両側には3本ずつのドレーンがまだつながっていましたので、そこから受け皿にたまる汚物の量の測定と処理、朝と晩には、首の両側を切っておりましたので、その傷の消毒と薬を塗ること、すなわちガーゼ交換を鏡を見ながら自分でいたしました。

戸外でのリハビリも義務づけられました。早春のミネソタは晴れていてもマイナス5度ぐらいでしたので、術後1か月の身に、この寒さはこたえました。またカンガルーの操作も自分でやるわけですから大変でした。アメリカでは早期退院者に必要な医療器具の貸し出しサービスがあり、私もこれを利用いたしました。

先ほど申し上げましたコンテナの消毒、管の洗浄、全部自分でいたしました。それから4時間おきに栄養補給のための、乳製品を入れるのですが、夜中は目覚ましをかけて起きました。4時間毎といいましても、実際には、終わった後であれこれがあり、3時間半おきぐらいに起きていたと思います。また、毎日の記録は表に作成し、一週間に一度のアポイントの折にドクター・ペインに提出しました。

ようするに、表をつくりまして、左側に日付を書き、体温、体重、汚物の量の項目を書き、縦横の線を引き、自分で書き込んで行くんですね。そして、アポイントの折に一週間の自分の状態を報告したわけです。

そんなふうにいろいろ大変でしたが、私が一人でできると信頼して、早々に退院させて下さった先生方やナースの方々のことを思うと、とても嬉しく、自分のことは自分でやっていけるのだという達成感や満足感を覚えることができました。

様々な厳しい指示を苦しんでやり遂げ、喜びと満足を得るということを繰り返したのですが、最後の試練は、口からの飲食が許されるようになったときでした。「最初の3日はゼリーやプリンの流動食でかまいませんが、4日目からはドクター・オカザキとまったく同じものを食べること。吐くことになるでしょう。下痢もひどいでしょう。でもぜんぜんかまいません。まだ50代半ばのあなたはまだまだ社会復帰のできる年齢です。できるだけ早く皆と同じものを3回で摂れるようにしましょう」とドクター・ペインからいわれました。

ゼリーやプリンのときはよかったのですが、4日目に常食を摂ることになると、途端にドクターのおっしゃった通り、食べ始めるとむせて吐く、下痢をする。やっと腸まで送り込むことに成功すると、今度は耐え難い、まさに腸に石を投げ込まれたような不快感に襲われ、ソファに倒れ込む・・・。そうした1、2週間は、食欲などあろうはずもないのですが、とのかく岡崎先生ご夫妻と同じものを食べ続けること、慣れることに必死でした。

一度に口に入れる量、食べる速度など、それまで、ものを食べることにあんなに一生懸命に気を配ったことはなかったと思います。ただ、食べられる量は限られましたが、経口で栄養摂取ができるようになると、めきめき体力が回復しました。1週間後にはショッピングに行ったり、120キロ、これは東京から静岡間ぐらいの距離だとおもうのですが、120キロ先のウィスコンシン州ラクロスまでドライブを楽しむ、ということもできるまでになったのです。

4月半ばを過ぎたとはいえ、雪の降った翌日の20日が、ドクター・ペインの最後の診療となりました。ドクターは「今日であなたに対するメイヨーでの治療は終わりました。もう病人ではありません。ですから薬も出しません。緊急の場合には夜でも電話していただいてかまいませんが、下痢や便秘、消化不良といったことは駄目です。あとは自分で自分の状態をしっかり観察しながら健康管理していくこと。あなたがこれから立派にやっていけるということは、30日間の入院生活で証明されています。もう明日一人で日本へ発っても大丈夫です」と穏やかにおっしゃるのでした。

正直いって、「薬も出しません」といわれたときは慌てました。それまでずっと毎日下痢がひどく、いつになったら状態が落ち着くのかとても不安でしたから、これで薬が出ないなんて・・・と心配しました。しかし後になってみますと、ひたすら薬に頼るのではなく、自分で自分の管理ができたことは、その後自立して生きる糧になりました。

                 

またリンパにガン細胞が見つかっていましたので、最後にレントゲン科へ回され診断を受けました。検査結果はコバルトをかけるべきかどうか非常に微妙なところで、レントゲン科の部長先生、ドクター・ペイン、私の間で話し合いがもたれました。最後はドクターが「執刀医の勘としては、この際副作用のあるものは何もしないほうがよいように思う。食道癌の手術でかなりのダメージを受けているので、これ以上はいじらないほうがいいと思う。それに放射線は日本でもできるのですから、帰って日本医大の先生方とも相談なさって決めたらどうですか」とおっしゃいました。結局帰国後、日本医大の先生方も、執刀医の勘を尊重しましょうということで、私も納得し、放射線も抗ガン剤もやりませんでした。薬の使用を慎重に考え、人間が本来もっている回復力を、まず引き出すことの重要性を身をもって学びました。


6.患者の自立に向かっての叱咤激励は、患者の尊厳を認めるということ。

これまでのお話では、少し厳しい側面を強調しすぎてしまったかもしれません。スパルタ式特訓の毎日だったとの印象をもたれた方もあるかもしれません。確かにこれをやりなさい、というドクターの指示に対しては、話し合って折り合いをつけていく、といったことはありませんでした。その時々に、私自身は満点しか許されないのだと全力をあげざるをえません。でも、こうすることによって、一つ一つをクリアできたことが、次の問題に取り掛かるときの自信につながりました。あの厳しさが、私の甘えを切り捨て、早い回復につながったのです。

表面の辛さに反して、患者の自立に向かっての叱咤激励は、とりもなおさず、患者の尊厳を認めるということに他ならないと思います。

取りあえず、直接的な治療方針、あるいは病院の姿勢という面でのお話しを先にしましたが、こうした面をフォローする様々なことにも、私はとても深い印象を持っています。最も大きなことといえば、医師団と、早い時期から信頼関係が樹立されてことと、そしてナースをはじめ、看護に当って下さった方々の行き届いた細やかなケアがあったことです。

少し具体的にお話ししてみたいと思います。医師団との交流は、毎朝7時にアシスタントドクターがいらっしゃるところから始まります。たいていアシスタントドクターはふたりでペアになって来られました。その日の様子を聞かれ、8時頃にはドクター・ペインがいらっしゃって、私の手を握り、「さあこの24時間のことを話して下さい」とおっしゃるのです。

ドクターは軍医として戦後日本にいらしたこともわりになるので、「オハヨーゴザイマス、タナカサン」と朝の挨拶はいつも日本語でした。最初の日、私は何をいっていいか分からず、黙っていると、ドクターは困ったようにおっしゃいました。「何でもいいから言って欲しいのです。こちらの考えだけでうごきたくありませんから。個人個人で違うことがたくさんあるのです。今英語を話すことは大変かもしれませんが、頑張って下さい」と。「何でもいいから言って欲しいのです」のことばに私は心を開くことができました。何でも聞いていただける、そう思ったのです。

医療側からすると、切った、貼った、薬を出した、快復させたでおわるかもしれませんが、患者にとっては医師との「やりとり」が入院中のことだけではなく、その後の人生にかかわることにもなるのです。それから退院までの30日間、土日以外、ほとんど毎朝、10分から15分ぐらい、私はドクター・ペインとの対話の時間を持ちました。時には、病気の話だけでなく、私の家族のことや、着ているパジャマの色のことなど様々で、本当に心和むひとときでした。病気のことに関しては、どんな質問にも、納得いくまで説明して下さったので、不安定になりがちな患者にとっては何よりの安定剤の効果があったのではないかと思います。

外科の手術の後ですと、なんとなく順調に、逆上がりに回復していくと期待して、辛いリハビリに耐えているんで、行きつ戻りつで、戻る段階になると非常に落ち込むんですね。昨日はあそこまでできたのに、今日はこういう状態だと。何回も落ち込むことがあったんですが、そういうときに、たまたま私の娘が北京に留学していたんですが、そのことを憶えていて下さって、「遠くに離れている娘さんが頑張って心配しているのに、お母さんが頑張れなくてどうするんですか」っていうような、非常に個人的な励ましのことばをいただいて、感動したのを覚えています。

医師と患者の間に結ばれる信頼関係を、医師がいかに重要視しているかということは、先ほども申し上げましたが、メインの手術後、2回の縫合手術を追加して行わなければならなかったときの対応にもよく示されていました。

私のところにいらしたドクター・ペインは、「私たちの力およばず、申し訳ありませんでした。一度ですませるべく全力を尽くしたのですが、首の左右両側にリークが見つかったのです。胸骨の後で縫合する難しい手術とはいえ、残念です」と深々と頭を下げられたのです。

医師自らが、その時その時の状況をきちんと説明されることによって、患者である私も、自分なりに、どういう状況にあるのか、どういう処置が行われていくのかを理解して事にあたることができ、精神的なゆとりともいうべきものがもたらされたと思っています。

それでも、さすがに、3週間に3回の全身麻酔で、3回目の手術のときには、「もう1回あるんなら、死んだほうがいいです。もう4回目の手術はしません」と先生にいったようです。

日本で現在盛んにいわれているインフォームド・コンセントは、何か「病名の告知」のみを意味するような響きがありますが、実は、病気の進行状況、治療や看護の経過や内容、あるいは将来の見通しなど、すべてを患者に説明することをいうのだと実感しました。

インフォームド・コンセントに触れましたので、これに関してもう少し話させてもらいますと、メイヨーでは、医師やナースがチームを組んで、一人の患者の治療に当ります。チーム内では互いに治療への意見を出し合い、議論しながら進めていきます。そしてここから多くの医療情報が患者にも伝わるのです。医師の説明を聞くと一人一人に対応した治療がなされている実感もあり、不安に陥ることがありませんでした。

術後の様子は、その日のうちに、ドクター・ペインから日本医科大学付属病院に報告され、そのコピーが私の枕元に届けられていたことも、ご紹介しておきたいことの一つです。

帰ってきてから、日本医大の先生方が大変恐縮なさって、「返事を書きたかったのだが、英語ができるものが一人もいないので、とうとう出さずに失礼しました」とおっしゃっていました。


7.日本の医療の場合、医療側の都合で決められていることが多い。

話はちょっとそれますが、先生方にお会いできる楽しみの一つに毎朝のドレスアップがありました。英国紳士のドクター・ペインは、背広だけでなく、ワイシャツ、ネクタイ、カフスボタンを毎日のように替えていらっしゃいました。フランス人形を思わせるアシスタント女医ドクターは、とっかえひっかえ素敵なスーツで現れました。アクセサリーもため息が出るようなものばかりでした。外界を感じることができるものは何でも嬉しかったのです。また先生方が大変身近に感じられ、朝一番明るい気持ちになったことを憶えています。

三笠宮殿下がやはり食道癌の手術をなさいました。ご入院中に七夕祭りがあり、短冊に「お医者さんお願いです、白衣以外のものを着て下さい」という主旨のことをお書きになったと新聞で拝見し、私だけではなかったと嬉しくなりました。

私が感じた細やかなケアとはどのようなものであったか、もう少し詳しくお話してみたいと思います。まずはナースのことですが、私が一番驚いたのは、大勢の方が入れ替わり立ち替わり看護に当ったということです。朝8時から夕方4時まで、夕方4時から、深夜12時まで、12時から朝8時までと、三交替のローテーションが組まれているのですが、一週間に一度の人、2、3度の人、あるいは夜だけのパートの人など、様々です。

こうして考えてみますと、30日間に私がお世話になったナースの方は、一度しか会ってない人も含めると、大変な数になりそうです。定期的にお世話になった方でも、4、5人になります。ところが、そうした入れ替わり立ち替わりの体制の中でも、不自由さや不快感、不安を覚えたことはありませんでした。

メイヨーはベッド数2000の大きな病院ですが、このしっかりとした一つの大きな流れが、何によってもたらされているのか、今考えても不思議なところです。最後まで変わらなかったのはヘッドナースとアシスタントナースのお二人だけだったように思います。

メイヨーはナースの養成機関は持っていませんが、病院へ来てから継続教育の時間が取れるようにプログラムが組まれているそうです。この教育の賜物かもしれません。上の学校へ通っているというナースもいました。それぞれに成長の機会を与えられているわけで、皆さんの名前を覚えるのが一仕事でした。

メソジスト・ホスピタルの病室はナースステーションを中心に放射状に配置されています。私のように家族の付き添いがない場合、静まり返っていないほうがいいだろうと配慮されて、たいていドアは開け放たれていたのですが、ジョークが飛び交うのか、笑い声が絶えず聞こえてきました。この明るさと元気さは、頼もしくもありました。

日本の病院の場合、ナースステーションでいつもジョークが交わされ、笑い声が絶えなかったら、大変なことになると思うんですね。日本の医療の場合、すべて医療側が、患者のためにはこれがいいんだと、医療側の都合で決められていることが多いように思うんですけれど、患者の側からすると、ナースステーションの明るい雰囲気が、とても心地よかったんですね。

私は手術後、病院の担当ナースのみの看護で付き添いは誰もつきませんでしたが、助けが必要なときはナースコールのベルを押すと、すぐ飛んできてくれましたし、担当ナースが他の患者についているときはヘッドナースがすぐ来てくれましたので、何の不自由もありませんでした。

家族の付き添いのある場合は、すべて本人の希望を聞いてケアしていました。朝7時から夜8時までが面会時間ですので、夜は近くのモーテルに泊まり、面会時間の間だけ付き添って介護されていた奥様も何人かいました。食事の世話や清拭など、すべて奥様がされているというケースもずいぶん目にしまいた。

夜中睡眠剤を求めると、10分も待たずに薬が届きました。私の場合、先ほどから申し上げていますように、何でもカンガルーを通して摂取していましたから、薬はすべて液体状のものでなければならなかったのですが、一度の間違いもありませんでした。薬剤師が病棟に常駐しているそうです。

リハビリで廊下を歩いていると、担当でないナースの方々も必ず声をかけてくださいました。「昨日より顔色がいいですよ」とか、「ずいぶん歩けるようになりましたね」など。自分では自分の回復度がつかめず、落ち込む場合もありましたから、この励ましの一言は嬉しかったのです。

私がお世話になったナースの中では、パッツィと、実習生のキャサリンが思い出されます。パッツィは深夜から朝までの勤務が多かったようですが、なんと妊娠8か月の身でした。彼女が懐中電灯を脇に挟んで、中心静脈の細かい仕事に集中しているときなどは、こちらが彼女の健康を心配してしまいました。家族のことや週末の出来事を話しながら、「とても幸せな生活だ」といっていた彼女の笑顔が今でも印象に残っています。

                 

彼女だけでなく、身体を拭いていただいたとき、ベッドのシーツを変えていただいたとき、検温のとき、そういうちょっとしたナースの方々との接触の折にこちらの話も聞いていただきましたが、彼女たちも実生活についていろいろ語ってくれました。地道に分相応の仕合せを築いている彼女たちの生活を知り、感動しました。このナースとのコミュニケーションは私にとって安らぎの一時でした。

3回目の手術の翌日、既に予定が組まれていたらしく、ドクター・ペインの術後処理についていたのは、何と実習生のキャサリン一人だけだったのです。実習生となぜ分かるかというと、ちょうどスキーの選手のように、大学名の書いてある大きなゼッケンを胸につけているので、どの大学の実習生かということが一目で分かるのです。

「えー、大丈夫かな」と、先ず心配になりました。しかし彼女はドクターの指示通りにテキパキ動き、部屋を出て行くときには、ずっと後の方で見ていたヘッドナースに「よくできました」と肩を叩かれていました。学生の間に、どれだけの実習をしているのでしょう。技術の基本はしっかりマスターしているとばかり自信に満ちていました。

身の回りのことでもいろいろお世話になりました。前にも言いましたが、朝晩、石鹸とお湯を使って全身を拭いていただきました。そのとき、「下半身は自分で拭きますか」と必ず聞かれます。「はい」といいますと、その間ナースは席を外します。

この時びっくりしたのは、清拭の後、ボディローションを出すようにいわれたのです。ボディローションなど使っていないと答えると、もっと驚かれ、買ってきてあげるからと、希望のメーカーを聞かれました。翌朝、いい香りのローションが届けられました。毎朝、これでマッサージをして下さいました。

毎朝、ガウンとシーツの交換がありました。着用するものは、ガウン、下着、靴下まであります。ただ、希望すれば持ち込んだものでもよかったので、私は自分のパジャマを着ていました。寒がり屋の私は、暖房の室でもしっかりパジャマを着ないと落ち着かなかったのです。

あと、寝たままで髪を洗っていただきました。リハビリに出る前は髪にブラシをかけてくれました。リハビリで廊下を歩くときは少しお化粧をしたほうがいいといわれビックリしたことを思い出します。気分も身なりも早く普通の状態に戻す、ということなのでしょうか。そういえば、外来の待合室に、普段とまったく変わらない服装の方々をお見受けします。80代と思われるオバアサマでも、じゃらじゃらアクセサリーをつけて、マニキュアは真っ赤でした。

私の退院日を決定する際、ドクター・ペインとヘッドナースがそろって部屋に来られたのですが、ドクターは、ナースから見た私の入院生活、そして退院後の治療を一人でこなす自信ができているかどうか、彼女の意見をとても重要に考えて、総合判断を下されたようでした。その結果、最終的に退院日の決定を行ったのは、ヘッドナースのミス・ブラウンでした。ドクターとナースがチームメートとして、常に同じ態度で患者にあたることが以下に大切か身にしみました。


8.採血のときのメイヨーのスペシャリストの技術は凄かった。

メイヨーではナースのユニフォームがありません。私がいた頃は帽子もありませんでした。白なら何でもいいということで、若い人はポロシャツにスラックス、リーボックの運動靴、年配の方はフレーヤースカートにブラウス、毛糸のベストなどでした。今は、各部所で、好みの色を着ているそうです。因みに、メイヨーのナースの平均年齢は46歳、だそうです。みなさんキャリアとして、自信満々でした。日本では46歳の看護婦を探すのは大変だと思います。

玄関には車椅子やストレッチャー担当のメッセンジャーと呼ばれる若い男性が何人も待機していて、患者の移動にあたります。病室から検査やリハビリへの移動も、もちろんこのメッセンジャーが行います。ですから受け持ちのナースは、ベッドから車椅子やストレッチャーへ患者が移るときに、ちょっと手伝うだけで、病棟を離れるということは、まったくないのです。

検査のことについては、後でお話したいのですが、個々では私の移動についてくれたメッセンジャーについて一言。彼はとても陽気な人で、ストレッチャーの飛ばし方が凄いんですね。まあ、廊下に誰もいないということもあるんですが。廊下の端からエレベーターのところまで、ばんばんストレッチャーを飛ばしながら、「俺の親父はミネソタ一腕のいいタクシーの運ちゃんさ。だから俺の運転も確かなものだよ」とうそぶいていました。検査へ向かう不安な気持ちを、いつもジョークで拭ってくれました。

肺炎のときに毎晩背中を叩いてくれたのは、専門のセラピストでした。毎朝6時に採血がありましたが、これもスペシャリストでしたので、本当にあっという間の、見事な技術でした。実は私は3年前に、再手術で日本の病院に入院したんですけれども、病棟の27人の看護婦さんのうち9人が、5月に入院したんですが、9人が4月に入ったばかりの看護婦さんで、静脈注射がなかなかできないんですね。序脈注射の針を入れるのに、3人目でようやく入ったという経験がありましたので、いかに採血のときのメイヨーのスペシャリストの技術が凄かったかということを思い知らされました

退院のときに荷物をまとめて車まで運んでくれる係りもあります。タクシーを使えば退院が一人でもできるということは、ありがたいの一言に尽きます。これは入院のときもそうですが、食道癌の手術は手術の中でも、移植手術に次ぐ大手術といわれていますが、そのような手術を受けに行くのに、患者一人で行くなんていうことは想像もできないと思うんですね。でもアメリカではそれは日常茶飯事で、家族のいない人、遠くから来た人は、一人で入院し、一人で退院するということが、可能になっているんですが、凄いことだなと思いました。このことは、その後の患者の自立して生きていく姿勢につながるのだと思います。

ですから日本の病院は、甘やかされているところは非常に甘やかされていると思うんですが、患者にとって肝心なところが手薄になっているのではないかと、自分の経験を通して、感じました。

入院前や退院後の一人での通院に関していえば、エスコートサービスというのがあり、希望すれば病院内での移動にも付き添ってくれます。すなわち、日本で通常看護婦さんの仕事として捉えられているいくつかの仕事は、それぞれの専門の人が従事しているのです。このことは、ナースが本来行うべき看護という仕事に集中することができるということを意味していると思います。


9.メイヨーの地下には2000枚の絵があり、患者の好みの絵を飾ってくれる。

ここでもう一つ話させていただきたいことがあります。それは私が受けた数多くの検査で、本当にありがたかったことについてです。肺炎にかかりましたので、胸部のレントゲンだけでも15回も撮りましたから、CTなどを含めるとかなりの回数になったと思います。そのつど、検査までストレッチャーで運ばれたのですが、枕や毛布の数を、こちらが望む通りに、ひとつひとつ気遣ってくれたのです。私の場合、45度の傾斜ベッドに寝ていましたので、たとえ数分でも、それと同様の姿勢になれる3つの枕に上半身を支えられることは、非常に楽だったのです。

またアポイント制なので待たされることなく、外来の検査とは部屋が違うので、パジャマ姿でも安心していられるというのも、気分的に助かりました。胸部のレントゲン検査で、乳首にパットを被せる必要のあるときは、前をはだけることになりますので、女性の検査技師に代わりました。

まずドクターや技師から、どんな検査をするのか、どのくらい時間がかかるのか、という再度の説明後、始められます。途中で気分が悪くなったら手を挙げるよう指示されていますが、それをしなくても、半分すんだところで合図が入り、後半も頑張るように励まされるわけです。このような配慮は患者にとって非常に大きな救いとなりました。やはり検査一つ受けるにしても、不安で孤独な気持ちになるということは、実際に病気を体験してみないと分からないものです。

                                   

どうしても、医師の先生やナースの方々のことでの感想が多くなってしまいましたが、メイヨーがもっているケアのきめ細かさは、まだまだたくさんあったことも加えさせていただきます。毎朝生活必需品をのせたワゴンが、病室に来ましたので、便箋、切手類、ティシュなど自分で選んで買うことができました。他に希望の品があれば、頼んでおくと取り寄せてくれました。代金は請求書に回してくれるので現金を持つ必要はありません。美味しいと評判の食事は残念ながら私には関係なかったのですが、主食、副食とも数種類のメニューから選ぶことができます。

ボランティアの人たちが壁にかける絵を持ってきてくれました。こちらの好みをいうと、それに近いものを調達してくれるのです。メイヨークリニックの地下には2000枚ほどの絵があって、患者が変わると、ボランティアの人が患者の好みの絵を聞きにきて、架け替えてくれるのです。

ボランティアといえば、昔、ロチェスターの大学に留学中だった娘がクリスマスキャンドルでメイヨー病院を訪問し、そのときの様子を詳しく知らせてきてくれました。病院全体がクリスマスの飾り付けで溢れ、その明るさに驚いたそうです。小児病棟など、ぬいぐるみがたくさん置かれ、とても病院の中とは思えない雰囲気だったようです。

小学生の女の子が可愛いドレスを着て配膳を手伝っていました。ハロウィーンのときなども、小児病棟の子供たちの仮想をボランティアが手助けします。回診のお医者さんやナースの方にも仮想姿を見かけます。単調で暗くなりがちな病棟との雰囲気がぱっと明るくなり、カボチャの季節の風が吹いてきます。病気と向かい合う生活を余儀なくされる者にとって、あるいは一喜一憂に明け暮れる家族にとっても、このような「気分転換」は貴重な一時なのです。日本の一般病院ではまだまだボランティアに解放されていないことが残念です。

入院中に、メイヨーでボランティア活動についていろいろ学びましたが、驚くことばかりでした。この組織のマネージメントとコーディネートに当る責任者は専門職として雇われ、ボランティアを束ねるだけでなく、医療側との架け橋にもなっていました。これから日本の病院でも、ボランティアの発掘、育成がもっと必要となってくるのではないでしょうか。

マンパワーが補われるばかりでなく、病院に閉じ込められていると外部の人たちとの接点の多いことが励みになるのです。希望しないことは辞退する自由がいつでもあるわけですから。また、たびたび牧師、精神科医、が来て下さり、苦痛があれば申し出るようにいわれました。

各病室にはテレビが設置されていることは申し上げましたが、この大型テレビは時計を兼ね、ベッドから見やすい位置にぶら下げられています。これは教育プログラムを内容とする報道で、施設のオリエンテーション、心身マネージメント、各種疾患、検査、治療法など、いずれも10分から30分で編集されています。ですから、自分が受ける検査や手術について知りたければ、それを検索して、テレビの画像で見ることができるのです。日曜日には、ミサや礼拝の番組もありました。

あと、物的な面としては他にパンフレット類、患者の図書館もありました。パンフレット廊下の壁ポケットにいろいろ置いてあり、幅広い情報を提供しています。図書館には小児用から外国人患者のための外国語書籍まで、5000冊以上あります。プリズムグラス、本立て、拡大鏡などが貸し出されます。プリズムグラスは頸部を固定された患者が、そのままの姿勢でも文字が見られるように作られたものです。

視力障害者のためのカセットテープ、他に雑誌、タイプライター、テープレコーダー、CDプレーヤーなどもありました。

ベッドの手すりには電話がはめ込まれ、こちらからかけるのはロチェスター市内に限られますが、無料です、受けるのは24時間どこからでも可能でした。

私には特に長距離の使用が許可されましたので、カリフォルニアの弟、大学時代の恩師、高校時代の友人などからの声の励ましが大きな慰めと支えになりました。

面会時間は朝8時から夕方7時までで、家族の付き添いのある方たちは、近くのホテルやモーテルに泊まり、この時間帯を一緒に患者と過ごしていました。私は一人だったので、お見舞いの手紙とこの電話が、親しい人たちとの大切な交流の場だったのです。

電話をかけるのが無料というのは大変大きいんですね。家族が市内に住んでいたり、市内のモーテルやホテルに滞在している場合には、面会時間が終わった後、話がしたければ何時間でも延々と家族と話ができるわけです。これは市のサービスとして行われていました。

直接ケアに関することではありませんが、メンテナンスが実に見事で、どこへ行ってもチリ一つありませんでした。また臭いがまったくないというのも不思議でした。強いていえば、ボディローションの香りぐらいです。病室の掃除は毎朝ドクター・ペインが帰られた後、9時ごろから専門のオバサンがきてくれました。このオバサンがまた面白い人で、毎朝大声でジョークを飛ばすのです。ただ、ドクターの来られるときが、そういうわけで、一日の中で一番散らかっているときなので、恐縮してしまいました。ある日など、床に落ちていたガウンをドクターが拾って、ほこりを払い、きちんとたたんでベッドの上に置いて下さいました。

病院の中には何か所も家族用の待合室がありました。小さなホテルのロビー風で、本や雑誌が置かれていました。院内に家族のくつろげる場所があるということは、患者にとっても家族にとっても救いだと思います。

また英語の話せない患者には、病院の負担で通訳のサービスが用意されています。事前に頼んでおけば、ほとんど言語でも大丈夫だということです。

ご参考までに申し上げますと、私の場合、請求書はA4、14ページにわたり、その日その日の明細がびっしりタイプしてありました。ですから、これを見るだけで、受けた治療と看護の内容が一目瞭然というわけです。血液やその他の検査、注射、薬、点滴などの内容や料金、また手術室やリカバリールームの使用料、ドクターフィーなど、中身をつぶさに知ることができました。納得がいかないところがあればいつでも申し出るようにいわれました。

ちなみに私は、掛けていた郵政省の簡易保険2口と疾病付生命保険に思いがけず助けられるという結果になりましたが、日本式の「お礼」といったようなことは一切必要ありませんでした。

日本で手術を受けるように勧めて下さった方もあったのですが、そのとき伺った話では、だいたい相場として、14年前の話ですが、一流病院の一流の先生方に手術を受けた場合、お礼が最低100万だということだそうで、まあ、これが私が日本での手術を諦めた理由の一つです。先生へのお礼が100万以上とすると、紹介して下さった方へのお礼はどうなるのかと考えると非常に煩わしく、それが非常に嫌だったのです。

余談になりますが、日本から豪華なお花が届いたことがあります。アメリカ人はお見舞いに、ほんとに些細な、小さなお花を贈るのですが、日本は一人3000円とか5000円で、5人とか6人一緒になると、大きな額になって、すごいお花が届いちゃうんですね。それで、看護婦さんたちが、あんな凄い花が届くあの人は一体何者だろうと、入れ替わり立ち代わり見に来たこともありました。

配達して下さった花屋さんからのメッセージに、「花をたくさん買っていただき感謝しています。今日はこれで日米貿易摩擦の問題は解消しました。ゆっくりお休み下さい」と書いてありました。心が弱いときには、どなたからでもいい、優しい一言が欲しいのです。

病院のスタッフの方々だけでなく、ボランティアの人たち、お掃除のオバサン、そして花屋さんまでが力をあわせて、明るい雰囲気を作り上げている、という印象を持ちました。皆さんが絶えず笑顔で接して下さったことでも充分嬉しかったのです。笑顔、笑顔、笑顔、いつも笑顔で、ほっとしたものです。


10.退院したとき、病が癒されただけでなく、その後の人生を前向きに生きる力が備えられていた。

帰国後も、半年毎に、検査の結果をドクター・ペインにご報告いたしましたが、いつも必ず長い励ましのお手紙を下さいました。

帰国してから3年後の10月には、ロチェスター訪問の機会がありましたので、すでに引退なさったドクターを娘と一緒にご自宅に訪ねました。応接間でその後の様子を聞いて下さり、また、励ましのことばをいただき、あらためて感慨深い気持ちになりました。帰り際、背の高いドクターが、私の娘の肩をしっかり抱き、私の方をご覧になって、「お孫さんの顔を見ることができますね」とにこやかにおっしゃったときには、不覚にも涙が溢れました。この時の涙と、その向こうににじんだお庭の雑木林の美しい紅葉を、私は生涯忘れないと思います。

今年の3月6日で手術から満14年が過ぎ、一応完治したことになります。しかし後遺症は依然残っていますし、毎日の健康管理はなかなか大変です。外に出るときは頑張って、あまり弱々しいところを見せしないようにしていますが、影でいろいろな要素を毎日、コンピュータにインプットして自分の健康状態を管理していくということは大変なことです。

ただ、目の前の現実をしっかり受け止め、「できるだけ普通の生活を」とおっしゃったドクター・ペインのおことばを心がけています。体調が悪かったり、いろいろ困難にぶつかれば、この身体でどうして・・・と、落ち込みます。夜中に一人泣きわめくこともあります。体力が続かないとき、ふと自分のハンディを思い、もう歳も歳だし、人生もういいとやけになったりすることもあります。そういうときは、いつも私に力を貸して下さったメイヨーの方々のお顔を思い出し、気力を取り戻すようにしています。

                 

帰国の前に最後にお会いしたときのヘッドナースの話も忘れられません。私がいつまでたっても一向に改善しない食後の不快感を訴えると、実は今でも不快感があるんですが、彼女は一生食事をすることができない一人の患者さんについて話してくれました。その人は、胃に穴をあけ、パイプを通して栄養を摂っているらしいのですが、好物のスイカだけは、見るとどうしても我慢ができず、口に入れて噛んではすぐに吐き出すのだそうです。私はこの話を思い出し、「さあ、元気を出して、しっかり食べて、体力をつけなくてどうする」と自分の甘えに、しかと気合を入れます。

思えばあのとき、私という人間にかかわり、ケアして下さる方々の存在がある限り、どこまでも頑張ろうと決めていました。そして、この思いが、入院中だけではなく、その後の私の人生の生きる力につながったのです。ただ回復させて退院までこぎつければそれで終わり、というのでなく、その後の患者の社会復帰も医療の側の視点にありました。それがどんなに大きな励みになったか、もう一度いわせていただきたいと思います。病院での体験とその病気の後遺症を背負って生きなければならないそれからの人生は長いのです。その人生の生活の質が高いものでなかったら、病に打ち克ったとはとはいえないのです。私は一人で病院の入口をくぐり、闘病の体験をしましたが、出口を出たときには、病が癒されただけでなく、その後の人生を前向きに生きる力が備えられていたのです。

今、車椅子の社長さんをしていらっしゃる山崎さんという方がいます。この方は10代の頃、ボストンの高校の2階から落ちて、腰を打ち、一生車椅子を離せない生活になられました。彼の手記によると、彼が病院に入った瞬間から、もう即、あなたは一生車椅子ですと宣告されたのですが、続いて、車椅子の生活でも、これができます、こういう雑誌が出ていますから読んでください、泳ぐこともできます、あれもできます、ハンディになることは何もありません。というような指導があって、退院したときは、これからの人生が惨めだという思いは微塵もなく、どうやって楽しもうかというとても前向きな姿勢で退院できたとのことです。

現実に今、彼はアメリカから車椅子を輸入する会社を興して、いろんな場所で活躍しています。これは凄いことだと思うんですね。

今、悔やむことなく強がることなく、ありのままに感謝をして生きつづけたいと思っております。あの体験を通して、生あるすべてのものと、生きることへの共感、慈悲の異議など現代人として衰弱しきっていた感性を蘇らせることができました。今ほど深く生きていることはありません。一日一日を踏みしめ、一歩一歩味わって行こうとしています。明日どのような病や死がやって来ても、たじろぐことなく受け入れられたら、と念じています。精神がおざなりになったとき、いつでも立ち返ることのできる原点を持つ仕合せをかみしめています。

医療の場で人間としての尊厳を守られた体験が、その人のその後の人生に強い影響を与えるということは、凄いことだと思います。


11.患者の意識が変わらないと日本の医療はよくならない。

これで大体メイヨーでの私の体験の話は終わるんですが、日本における医療ミスの問題がいつまでたっても後を絶たないっていうことは、いつも現場でいつも思うんですけれども、もう凄いマニュアルができてるんですね。素晴らしいマニュアルができてるんです。ただ、そのマニュアルは引き出しに入っていて、いざっというときに読んでない、どこにあるかもわかっていない。医療側の意識が変わらない限り、医療ミスは直らないと思うんですね。

それと同時に患者の意識が変わらないと日本の医療はよくならないと思います。今朝の朝日新聞に、「乳がん、見逃しなぜ」という記事が載っていました。3人の子供のいる30代の終わりの女性が、しこりがあるという自覚症状が出て、お医者さんを訪ねて検診を受けたのですが、誤診なんですね。いよいよ痛みが出た5年後、再度、医者に看てもらったら、脂肪の塊だといわれた。それから2年後、痛みに耐えられずに、診てもらったところ、癌と診断された。もうときすでに遅し。一応の治療を、放射線も、抗癌剤も、するんですが、そのときの苦しみは想像を絶するものだったと思います。しかし、転移は止められず、半年後に亡くなりました。

半年ということになれば、誤診を訴える時間もないわけですね。だから先ず、大事なことは、セカンド・オピニオンを、これは、東京ではかなり普及してきましたが、少なくとも、自覚症状が出たら、セカンド・オピニオンを取るべきです。アメリカでは、医療費がとても高いものですから、予防医学が進んでいまして、例えば、大腸癌はポリープから癌になるまで5年かかるわけですから、その5年間に一度も検査を受けないということは、考えられないことです。大腸癌で死ぬことは恥であるという意識がアメリカでは一般的になっています。

乳癌も、私はメイヨーで乳癌を発見する方法というクラスを取ったのですが、乳房の模型がいくつもあって、そこに大小いろんな形の癌ができているんですね。それをどうやって探すかという訓練をさせられました。そして、その癌をぜんぶ見つけ出さないと、そのクラスを修了できないんです。そして、今後は、一人ではその検査をできないので、年に一回、何人かで決めて、電話をかけ合って、やるようにと指導されました。このように、アメリカでは、具体的な予防医学が発達しています。

その点、日本はみなさん保険に入っていることもあって、自覚症状が出るまで検査を受けないことが多いですね。自覚症状が出て検査を受けた時点で、セカンド・オピニオンを必ず取っておくべきだと思います。

それから明らかな医療ミスがあった場合、泣き寝入りをしない、裁判に訴えていく、それも和解をしない、最後まで闘う、というような姿勢が患者の側にも必要ではないかと、私個人では思っています。

それから、アルファクラブという胃を切った人たちのクラブがあって、その機関紙によると、日本人の100人に一人が胃を切っているようです。これを読んでいますと、十人十色で、もう胃を取ってしまった後、年齢に関係なく、寝たきりで奥さんが三度三度の食事の世話をしている人から、普通の人とほとんど変わらない生活をしている人まで千差万別なんですね。

ここに、「胃を切った人は自らの努力と工夫で、術後の後遺症を克服して行こう。そして、普通の人より、むしろプラスアルファー、元気に生きよう」って書いてありますが、そのぐらい術後の様子に個人差があるんですね。そういうことも含めて、医療は患者自身も選んでいくという姿勢が必要だと思います。

私は、今、米玉堂さんのアルファー・ハイツをお借りしていますので、辰野にいても、プラスアルファー元気に生きなければならないと思っています。

先ほど申し忘れましたが、メイヨクリニックの広さは東京ドームの50倍ぐらいあります。10階以上のビルだけで、15ぐらいあります。研究所、医学生も抱えています。メイヨーの場合、平均入院日数は5.5日です。ですから、日帰り手術は日常茶飯事です。

それから、後で、パンフレットをお渡ししますけれど、私の同級生が役所に勤めていたのですが、定年退職後、ニュージーランドに家を買いまして、生活していたのですが、ニュウージーランドの病院で子宮がんと診断されました。その病院ではステージ3で助からないといわれ、国立がんセンターでは、手術しても無駄と思うけれども、あなたが手術したいなら3週間待って下さい、といわれたとのことでした。

彼女はもう覚悟を決めていたのですが、英語ができるのでメイヨーへ行ってみたらどうかと勧めました。彼女は日曜日にロチェスターに着き、次の日の月曜日に検査を受けたんですね。6時半に検査が始まり、9時に先生にお会いしたら、彼女の顔をじっと見て、「あなたはステージ3ではありません。手術すれば、90パーセントなおります。もう顔色を見れば分かります」といわれたんですね。

パンフレットをすでに何人かの方々にお渡ししましたが、まだの方はお持ち帰りになって、お読みいただきたいと思います。

時間をちょっとオーバーいたしましたけれど、長い間、ご静聴ありがとうございました。



田中美智子(たなか・みちこ):東京都出身。1953年、東洋英和女学院卒業、グルー基金により、イリノイ州ノックス・カレッジ入学。1957年同校卒業。社会学専攻。帰国後、長年、留学コンサルタントとして活躍。

田中さんが手術を受けたミネソタ州ロチェスターのメイヨー・クリニックのホームページ:http://www.mayoclinic.org/rochester/



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